ための統一戦線の必要の実感は、一九三三年以後の人民戦線運動のころよりも、深くひろく、肉体的になっている。それは、アジアにおいての日本が、世界人類に対して独特な苦しい良心的立場におかれているという事実に立っている。朝鮮が隷属からときはなされ、中華人民共和国が確立し、アジアの半植民地、植民地のすべての土地に民族自立の運動がおこっていて、それぞれに成功に進みつつあるとき、自身としては武器をすてている日本人民が、全アジアに対して、小さいけれども強い毒をふくんだ矢じりのようなものとして仕上げられようとしていることについての苦痛と抵抗とである。
一九五〇年代の日本の人民的な諸活動の骨髄は文学をふくめて、このカリエスをどのように治療してゆくかという課題に向わないわけにはゆかない。日本の現代文学は、この角度から、世界文学のうちに何かの意義をもつものであるか、或は、空文の憲法をもち、天皇というシムボルをもつ屈従の民のはかない気まぎらしの智慧の輪あそびと饒舌にすぎないものであるかを検討されなければならないときになっている。
四
このような一九四九年のはげしい渦に対して、民主主義文学運動は、それ自身を十分に展開しなかったし、現代文学の諸課題に向って展望的に作用することが非常に弱かった。この理由は何だったろう。反動攻勢という手近い返答が、解答のすべてではないと思う。
一九四六年のはじめに「新日本文学会」が組織され、民主主義文学運動が着手された。当時、日本の民主主義革命そのものの特殊な性格、すなわち、これまでの封建性、絶対主義に対するブルジョア民主革命をおしすすめる過程に、当面の革命が成熟してゆくという特殊な歴史的条件は、見とおされていなかったわけではなかった。人民民主主義革命への道における労働者階級の主導的な役割が、否定されているような理解はもちろんなかった。けれども、文学運動の面では、新日本文学会の創立大会でも、その後につづく第四回までの大会でも、民主主義文学運動の背骨としての労働者階級の文学の性格と方向とは、明確に規定されなかった。それには次のような原因があった。昔のプロレタリア文学運動の時代は、日本のすべての解放運動が非合法におかれていたために、たとえば『戦旗』は階級的な文化の文学雑誌であるとともに、その半面では労働者階級の経済、政治の国際的な啓蒙誌でも
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