解するものであるが、この場合には面白いことに、日本というものが総括的につかまれて、世界のただ中でそれが感じられるのであるから、その気持も、またいわゆる故郷をおもう気持といささか違った複雑な内容をもっている。
私の父は山形県の米沢に生れて、少年時代をそこで暮した。父の気質は明く活動的であったから、自分の仕事のあるところを生活の土地として、どちらかといえば故郷を忘れて生活した。それでも老年にはいってから、たべものが変るにつれ、いつとはなし米沢でたべたもの、例えば粒のこまかい納豆だの、納豆もち[#「もち」に傍点]だのを好んで食べるようになった。
私は興味をもって、その移りかわりを見ていた。
故郷をもつ人が、病気などしたり、暮しが不如意になって来たりして、故郷に心をひかれ、空想の中で、ひとしおなつかしく思われる故郷に、やすみや生活のたつきをもとめてゆく人がこの頃のような世の中では数の多いことであろう。
そのようにして故郷にかえった人の何割が、果して現実の故郷で心に描いていたものをみいだし得ているであろうか。やはり故郷にかえってみても自分はここに生涯を終る人間でないという感じを深めている
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