得ない。日本にも新しい文学は生れるだろう。私たちが、忠実に現代の日本の辛苦と努力とを経て生きてゆけば、私たちの文学はいつしか変って来ざるを得ないのである。
 しかし、文学についてそのような変化を云う場合、どんなに変化の大さが云われてもやはり文学の本質から離れて考えることは不可能である。どんなに変化しても文学は文学でなければならないし、さもなければもうそれは文学でないものに変ってしまったものとして、文学の外で語られなければならないものとなる。
 刻々に推移する今日の私たちの生活が、私たちの心に与える種々様々の動きを、落付いた人間として女としての思いのなかに感じとって、ささやかであろうとも我が心に恥じない文学として成長させてゆくために、今日特に私たちが心がけて怠らないようにしなければならない勉強は何だろうか。
 文学を愛する人々は、いつの間にかたくさんの世界の文学の古典をよんで来ていると思う。現代は、明日への健全な成長をするために特にこの古典を深く読むということが、実に大切なことになって来ているのではないかと考えられる。
 ただ面白いとか有名だとか、そういう目の先にひかれる感興にしたがってあれからこれへとあさって読むのでなく、自分がしんから尊敬出来ると思う古典を、しっかり研究して、その作家が一生をどんな努力で愛と正義とを求めて暮したか、そういう生々しい人間生活の跡にもふれて、学びとることが大切だと思える。
 世の中がおさえられない勢でうごくからと云って、その動きの一から十までが、人間生活のためによろこび迎えられるものではあり得ない。私たちは何によって、それを判断するよりどころを我心に見出してゆくのだろう。自分がこの人生に何を求めてゆくかということが判断の根本であり、その自分というものがとりもなおさず一人の国民であり女であるということで、自分というなかには、まぎれもない多数の声がひそめられているのである。偉い過去の作家たちは、いずれもこの点をはっきりと芸術のなかに与えている。古典のゆたかな奥深い森の火で私たちは特に今日その文学のいのちの泉をたっぷりと自分たちのうちへ汲みとるべき必要がある。礼讚するばかりでなく、自分のきょうの心をどう現してゆくべきかということをいつも一方に現実の課題として古典を学んでゆくときなのだと思う。[#地付き]〔一九四〇年十一月〕



底本:「宮本
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