んだといってよい。
彼が、若々しい衝動に全心を委せ切れず、いつも、控え目勝ちであることも、決して彼の本心の朗らかな悦びではなかった。
若し前途の不安と、父の名を知る時に対する一種宗教的な畏怖がなければ、スーラーブは、躊《ためら》わず愛人の地位に自分を置いたであろう。
父を知る日を境にして、自分の一生はどうなるのかと思うと、彼の情熱は鎮まった。あとに、尽きない寂しさに似たものが残る。
自分の運命を真面目に考えるようになってから、スーラーブは、彼の最善を尽して、来るべき一日のために準備していたのであった。
七
その朝スーラーブは例によって、何心なく母の処へ挨拶に行った。ターミナは、優しく彼を迎えた。そして、侍女に命じ、わざわざ新しく繍《ぬ》ったという坐褥を出してすすめたりした。スーラーブはいつもの通り、次第に麗かになって来た天候のことや、この春はかなり仔羊が生れそうなこと、前日の羚羊《かもしか》狩の模様などを話した。彼は、近いうちにチンディーの宝石売が来るという噂を伝えた。
「母上にも何かよいのを見繕いましょう。この前はいつ来たぎりか、もう二年ほどになりますね。美しい紅色の瑪瑙《めのう》なんかは、いつ見てもよいな」
ターミナは、遠慮深そうに、
「もう派手な宝石でもありますまいよ」
と云った。
「女達のに、さっぱりしたのを少しばかり見てやっておくれならさぞ悦ぶことだろうけれど」
「女達も女達だが……」
スーラーブは、何心なく顔を近よせるようにして、母の胸元を見た。
「どんなものをしておられます? いつもの卵色のですか」
彼にそう云って覗き込まれると、何故か、ターミナは、品のよい顔にうろたえた表情を浮べた。そして、さりげない風で、低く、
「別に見るほどのものでもありませんよ」
と云いながら、落付いた肉桂色の上衣の襞の間に、飾りを隠そうとした。が、頸飾りは、彼女の指先をもれ、スーラーブの目に、鮮かな碧色の土耳古《トルコ》玉がかがやいた。手の込んだ細工の銀台といい、立派な菱形に截《き》った石の大きさ、艶といい、調和のよい上衣の色を背景に、非常に美しく見える。彼は、母が寧ろ誇ってそれを見せないのを不審に思った。
「素晴しいものではありませんか」
ターミナは黙って、自分の胸元に目を注いだ。
「余程以前からあったものですか? 一寸も見なかった」
「気がおつきでなかったのだろう」
スーラーブは、何だかいつもとは調子の違う気のない母の応答ぶりに注意を牽かれた。何処となく堅くなり、強て興味を唆《そそ》るまいとし、一刻も早く話題の変るのを希っているようにさえとれる。彼は宝石の面に吸いよせられていた瞳を辷らせて、母の様子を見た。ターミナは、自分も一緒に珠の美しさに見とれたように、下目はしているが、顔には、張り切った注意と一寸した彼の言葉にも感じそうな鋭い神経があらわれている。――
スーラーブは、膝の上に肱をつき、屈《かが》んでいた体を起した。急に湧き上った疑問に答えて、彼の頭は、種々の推測を逞くしだした。第一、この地方で土耳古玉は、珍奇な宝玉に属する。母の意味ありげな素振は、何か、この珠の由来に特殊な事情のあることを告げているのではないだろうか。母のこれ迄の生涯で、若し特別な出来事があったとすれば、それは、自分の何より知りたいこと、知りたい人に、連関したものでなければならない。
スーラーブは、胸の底に熱いものの流れ出したのを感じながら、凝っと、俯向《うつむ》いている母を眺めた。
愈々時が来たのか? 余り思いがけない。あんなに隠され、かくまわれていた秘密、或は神秘と呼ぶべきことが、これほど偶然の機会で明されるのかと思うと、スーラーブは、妙に、信じかね、あり得べからざることのように感じずにはいられない。
八
考えているうちに、彼の心には次々に、新な疑問が起った。かりにも母が、その飾りを身につけていることが、却って、スーラーブを、思い惑わせたのである。万一、自分の想像が当り、見知らぬ父と関係あるものなら、彼女がそれを頸にかけるという一事だけで充分、その人の価値と、母のその人に対する愛を示されたということになる。ところが、案外の勘違いで、母のまごつきは、その宝石が、娘らしい物欲しさから、祖父の許しを得ず、そっと織物とでも換えたものだという、思い出から出たのかも知れない。
いつ? 自分だけの考えに沈み、スーラーブは心付いて、四辺の沈黙の深さに愕《おどろ》いた。
何とか口を開こうとした拍子に、彼は一つのよいことを思いついた。彼は、要心し、母を脅かすまいためわざと軽く、冗談めかして、
「ねえ母上、私には、その土耳古玉が、不思議にいろいろのことを考えさせますよ」
「――どうしてでしょうね」
スーラ
前へ
次へ
全36ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング