みしている者があろうなどとは夢にも知らず、若者はくつろいだ風で卓子《テーブル》に肱をついていた。此方に向いている引緊った、きめの細かい片頬から顎にかけて、斜めに灯が照している。やや憂鬱な黒い眼は、時々灯かげをちらつかせながら、じっと前方に注がれている。ゆるく開いた上着の襟元から、ルスタムは、色沢のよい健康そうな若者の頸を、胸の辺まで見ることが出来た。
幅のある胸、確かりした肩つき、鍛えられ、しかも、未だ塵にしみない青年の、何ともいえない新鮮な感じが、空気のように四辺に漂っていた。眉宇の間、心持大きめに緊った口元あたりに、品のよい、気位さえ認められる。何処となし、若者の態度に、真面目な重々しいもののあるのが、ルスタムに快感を与えた。微塵も、卑しげな粗忽らしいところはないが、消すことの出来ない青春の焔がとろとろとしんに燃えてい、温かい、熾な見えない虹が立っているように思える。
三十一
ルスタムの老た胸には、油然として羨望と一種の哀傷が湧き上って来た。
期待に期待した、最初の覗き穴からの一瞥が彼の予想にそわないものであったため、強者の感じは一層深められたのかも知れない。
イランの陣から、しんとして曠野をツラン方の高地に向って歩いている間、ルスタムは、闇の裡に幾度か、古いサアンガンの王女の俤を偲ぼうとした。あれから血腥《ちなまぐさ》い出来事が多くあったせいか、記憶はひどくぼんやりしていた。例えば、彼女の髪に飾られていた金の輪の色のような些細なことは鮮明に思い出されるけれども、顔立ちの確な特徴などを考えようとすると、ぼんやり目先に浮んでいたほの白い卵なりの輪廓まで、段々遠く小さく後じさって行くようなのであった。ルスタムは、その間に横わる時を思い、淋しい心持になった。けれども、彼は一つはっきりした希望を持っていた。それは、若者の顔を見ることさえ出来たら、そして、そこに何か血縁の類似がありさえしたら、きっと逆に母親の顔も忽ち思い出せよう、それで両方一度に明かになるという考えであった。ルスタムは、天幕に顔をつけ、息を殺し、賤しい奴僕のような態度で内部を覗いた刹那、何か頼りない衝動を感じた。彼が、当にならないことと思いながら当にしたものは、若者の顔から射出していなかった。何も彼の直覚を一握りで捕えるようなものはない。ただ雄々しそうな、育ちのよさそうな、一人
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