も、今は、異様な畏怖、予覚のようなものが加わっていた。行って見たいような、また、行かない方がよさそうな。彼が嘗て経験しなかった自分の進退に対して不安な半信半疑な気持にされたのである。ルスタムは一方からいえばその心持に明かな自分の老いを自覚した。けれどもまた一方から考えると、豪気な質の自分が、急にこんな変な弱い憑《つ》かれたような心持になるというのは、何か全く予想外な虫の知らせなのではないかとも思われる。まるで行かず、一目その若者を見ないでしまうのも心残りのようであるが。ルスタムは、考え惑った風で、手に力を入れ白髭をしごいた。注意深くその様子を見ていたギーウが、積重ねた座褥に肱をつき、ルスタムに顔を近づけて囁いた。
「――迷っているな?」
 ルスタムは呻くように云った。
「うむ」
 ギーウは、少し血走った眼でつくづくルスタムの相貌を視た。
「出かけろ、ことは詰るまいが、卿の血を少しは活々させるだろう。羚羊狩のつもりでよい。老いこむばかりが能ではないではないか」ルスタムは音楽の響が一きわ高くなるのを待って云った。
「儂には、妙にそのツランから来た若者という奴が心にかかるのだ。真実敵か味方かわからぬ――」
「――?」
 ギーウの顔に顕れた意外の色は余り著しく、ルスタムに居心地わるい感じさえ起させた。

        二十六

 ルスタムは、顔を背向《そむ》けるようにして低く呟いた。
「そやつの年頃が、こじつけると、丁度卿も知っているあのサアンガンのことと符合する。風体も何だかあの辺の者らしいではないか」
「ふむ……」
 ギーウは、まといつきそうにする踊娘の一人をうるさそうに片手でどけた。
「――然し、変ではないか。あの時のことは何の実にもならなかったのだろう? 俺はそうきいたと覚えているが……」
「彼方に遣った使者は、そういう返事を持って来た。そのままにしていたのだが」
 ギーウは、暫く沈黙した。そして考えた後、情のこもった調子で云った。
「何にしろ、こういう処にいるのはよくない。よい折だ。出かけよう」
「――出かけるのを強ち拒むのではないが、先に控えていることがいやだ。――俺は、多くの戦もしたが、まだ、敵か味方か判明せぬ者を殺したことはない」
 ギーウは、一言一言の言葉で、がっしりしたルスタムの老いた肩を優しくたたくように云った。
「それもこれも、俺は、卿の退屈すぎる
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