けた時に、ああ、到頭今日こそは、と思いました。今日これをつけていたのは……」
ターミナは云いよどみ、何ともいえず趣の深い、仄かな含羞《はにかみ》の色を口辺に浮べた。
「――十九年昔の今日、卿の父上がこの城へ来られたのです」
スーラーブは、厳粛な心持になって問ねた。
「今、その人は、どうしているのです? 生きているのですか、死んでしまったのですか?」
「生きておられるでしょう。生きておられることを祈ります。あれほどの方が、死なれて噂の伝わらない筈はない」
「そんなひとなのですか」
彼は、見えない、偉《おお》きな何ものかが、心に迫って来るのを覚えた。
「――誰です?」
「…………」
「ツランの人ですか?」
「ツラン人ではありません」
「まさか、この領内の者ではあるまい。――」
「イランの人です。卿の父上は……」
ターミナは、大切な守りの神名でも告げるように、恭しく、スーラーブの耳に囁いた。
「卿の父上は、イランのルスタム殿です」
スーラーブは、始めて自分が、天の戦士といわれている英雄の子であることを知った。ルスタムの名を聞いて畏れない者は、人でない。いや、アザンデランの森の獅子は、ルスタムの駒の蹄の音を聞いて、六町先から逃げたとさえいわれている。
十九年昔、ルスタムは、サアンガン附近で狩をし、野営しているうちに、放牧して置いた愛馬のラクーシュを、サアンガンの山地人に盗まれた。ルスタムは、この城迄その捜索を求めて来た。ターミナは、その時十八歳であった。表の広間は、勇将を迎えて、羯鼓《かっこ》と鐃※[#「金+(祓−示)」、第3水準1−93−6、345−9]《にょうはち》の楽が絶えなかった。内房には、時ならぬ春が来、ターミナは、不思議な運命が与えた恩寵に、花の中での花のように愛らしく、美しく見えた。一箇月後、ルスタムは、再びラクーシュに騎って山を踰《こ》え、イランに還った。スーラーブが生れた時、ターミナと父とは、異常な宝を、嫉妬深い二十年イランと干戈《かんか》を交えているツランの覇者、サアンガンの絶対主権者であるアフラシャブの眼から隠すに必死になった。星のような一人の男児が、誰の血を嗣いでいるか知ったら、アフラシャブは片時も生しては置くまい。また一人の子もないと聞いたルスタムが、自分の懐から幼児を引離すまいものでもない。
父と娘とは、心を合せ、策を尽して、スーラ
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