や、明日の遠乗の空想が湧き上って来る。シャラフシャーは、彼の恍惚《うっとり》とした口つきと、次第次第に面を輝かせる生活の楽しさとを見逃さない。スーラーブは、巧にシャラフシャーが持ち出した新しい話題に全心を奪われ、数分前の拘《かかわ》りを、さらりと忘れてしまうのであった。
 然し、それで紛れきってしまうには、彼の受けた感銘が余り強すぎた。ふと、思い出し、急な不安を感じ、スーラーブは同じ問いを母にも持ち出した。
 彼は、本能に教えられ、シャラフシャーに対する時よりずっと甘えて、直截に、
「母上、スーラーブの父上はどうしたの? 祖父様はこわい顔をして『父のない息子を見よと云われるな』とおっしゃった。父上は始めっからいないの? 死んだの?」
と、迫る。
 始めて、この問いを受けた時、ターミナは、スーラーブが思わず、喉をゴクリといわせたほど、驚きの色を示した。彼女は、スーラーブの傍に躙《にじり》より、手を執り、誠を面に表しながら、彼は今も昔もサアンガンに唯一人の偉い王になるため、天から遣わされた者であるということ、その命令を成就させるために、母もシャラフシャーも心を砕き、神への祈りを欠かしたことはないのだ、と話して聞かせた。
 スーラーブは、凝っと母の顔を見つめ、判り易い言葉で云われることをきき、半信半疑な心持と、畏れ、感激する心持とに領せられた。納得するしないに拘らず、母の熱の籠った低声の言葉や、体、心全体の表情が、幼い彼を沈黙させずに置かない真剣さを持っていた。
 十五六歳になる迄、スーラーブは、折々その質問を繰返して、母やシャラフシャーを当惑させた。けれども、だんだん質問の仕方が実際的な要点に触れ、返事を一層困難にするようになると逆に、彼の訊ねる度数が減った。青年らしい敏感が、そんな問を、露骨に口に出させなくなった。彼は、自分にそのことを訊かれる母の心持も同情出来るようになったし、少年時代から一緒に暮しているとはいっても、一人の臣下にすぎないシャラフシャーに自分の父の名を聞く、一種の屈辱にも堪えなくなって来たのである。
 彼は、黙って、鋭く心を働かせ、自分という者の位置を周囲から確め始めた。種々な点から、彼は、シャラフシャーが、全く自分の出生に関しては与り知らないのも判った。家臣等の自分に対する感情は、いささかもその問題には煩わされていない純粋なものであるのも知り得た。
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