)のうちに、集団的行動とその経験のうちに、その人としての人間的実感、人生への発言をどのように整理し表現してゆくかという課題である。民主的な文学のきのう、きょう、そして明日を通じてこの困難は簡単であり得ない。なぜなら、職場で積極的な労働者は殆ど常に組合であれ何であれ、自分たちの組織で有能なひと達であり、ある意味で指導的な人たちである。すべての組織の活動がその日々の現実において、いつもその人にとって歴史における労働者階級の任務のよろこばしさ、勇気、よりひろく高い階級の知慧の感じで実感されるとは限らない。当然矛盾が見出され、失敗とよばれ成功とよばれるものについても疑問が湧き、自分と周囲との見くらべがおこる。それこそ、階級人としての精神――肉体あるイデオロギーの成長のモメントである。ところが、かりに、その人が労働者であり、組合員であり、また他の組織に属しているという条件から、その多忙な活動について、むずかしく考えることなんかいらないんだ、云われることさえどんどんやればいいんだ、という風に習慣づけられるとしたら、そのひとの階級人としての成長とその文学の可能はどうなるだろう、ここに階級的民主的文学のむずかしい現実がひそんでいる。
労働運動の波が高まった年々の間に、たくさんの職場から若い作家が生れかけた。小説は、勤労する人民としての個々の日常生活を題材とし主題としたものが多かった。組合活動とはなれる職場作家という問題は、その根源に、文学のそとの複雑な基本的諸問題をふくんでいる。民主的な文学の陣営に属しているいくたりかの既成作家の文学活動がそのよくない影響によってそういう結果をひき出しているという強弁が一時流布したことがあった。そして一方に、文学に対する経済主義の偏向があらわれた。民主的評論、批評の活動は、あやまった一方的な見かたを正しい関係におき直すために多くのエネルギーを費さなければならなかったが、いわば、そこで息切れした。田中英光の「オリムポスの果実」からはじめられて「少女」「地下室にて」を通り「野狐」その他に到った過程の検討を、民主的批評がとりあげることも必要であった。しかしそれはたいしてされないままであった。現代文学はいつの時代よりも創作態度が意識的になっている。その意識性は、現在大部分がそこに陥っているように商品としての独自性を形成してゆく意企として存在するばかりでは
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