考えてみよう。人間社会の進展の原理が社会科学の立場から解明され、社会主義の社会、共産主義の原理が語られるとき、われわれの合理性はそれを理解し、支持しながら、そこに、なにかみたされない思いをもつというのはなぜであろうか。その間にもっとなにか瑞々しいものを、人間らしいものを、と求めるというのはどうしてだろうか。今日、荒らされ、放りだされた私たちの心情は、それほど美しさ、慰藉、愛と詩とにかつえているのは実際である。ほんとうに私たちは号令に飽きた。よくもあしくも強制にはこりた。
 だが、そもそも私たち人間がギリシアの時代からもちつたえ展開させ、神話よりついに科学として確立させたこの社会についての学問、社会科学とその究明よりもたらされる将来の構成への展望とは、人間情熱のどういう面とかかわりあったことなのであろうか。これは一片の乾いた思弁であり、闘志のつよいある種の人間たちだけの道具なのだろうか。すべての学問は、よろこびを求めてやまない人間心情を源として、そこから湧いて出ている。幸福であろうとする意欲は、人類が幸福という言葉の符号も、文字としての記号も持たなかったときから存在しつづけている。人類が
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