べての知識人、勤労者、農民の精神と判断と発言とを萎縮させた。徳川時代のとおり、ご無理ごもっともと、ばつを合わせつつ、今日私たちの面している物質と精神の破壊にまで追われてきたのであった。
 この時期、人々はできるだけ自分というものを目立たせないように努力した。個性や性格をきわだたせることさえおそれた。そして、低く低くと身をかがめたのであったが、このひどい屈伏が、一九三〇年以後におこったところに、今日の文化にとって重大な問題がひそんでいる。山の彼方の空を眺め、山の頂をはるかに通じる一筋の道を眺めたものにとって、窓をしめ、地球の円さは村境できれているように思いこみ、この村ばかりの優秀を誇るというのは、不自然で息苦しく愚劣にたえがたいしまつであった。徳川時代の民が土下座したとき、その埃のふかい土は素朴で、けっして現代のドライヴ・ウェイをもたず、全波ラジオをもたなかった。封建生活そのものとしての統一があり、封建の枠の内でつつましいおのれは分裂していなかった。自我の分裂の苦悩を封建人は知らないで生き、そして死んだのであった。最近十数年の間、日本の自覚あるすべての人々は、この深刻な自我の分裂に苦悩してきたし、人間理性への信頼を毒されてきた。精神を低く屈しさせられれば屈しるほど、その息づきのせわしさが自覚される三分の魂をもって、自身のうちに疼《うず》く内部反抗を自覚した。一分低くなれば一分だけ、五分ひくめられればさらに五分だけ、自分の心にばかり聴える抗議の叫びの痛切さを愛し、その真実にたより、それによって、屍とされてもなお死なざる人間としての自己を自分に知ろうとしてきたのであった。
 日本の権力の半封建な野蛮さが、人間性をどれほど歪め終せたかという現実を、こまかに眺めるとき、こころは燃え立つばかりである。なぜならば、人間性をそのように畸型な傴僂《せむし》にした権力は、よしんば急に崩壊したとしても、けっしてそれと同じ急テンポで、人間性に加えられた抑圧の痕跡、その傴僂は癒されないものとして残されているからである。それのみか、一年の時を経た昨今、彼らは呆然自失から立ちなおり、きわめて速力を出して、この佝僂《くる》病が人間性の上にのこされているうちに、まだわたしたちの精神が十分強壮、暢達なものと恢復しきらないうちに、その歪みを正常化するような社会事情を準備し、客観のレンズを奇妙な凹凸鏡にす
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