現れて来ている。思意的な生活感情は、そのような実感の吟味から表現されるとともに、あらゆる行動を行動のなかで消してしまわずそれを人生の歴史のうちに、生活の集積としてもたらして来る力となる種類のものである。
アランの言葉と云うと、その思意的な情感がうけとられ、評価され、国産であると思意的な人間感情そのものの存在が理知と一つにされたりリアリティーが疑われるというようなことがあれば、そこにはやはり今日の日本の文学、或は作家の心というものが考えられるわけではなかろうか。自然主義の時代からからんで来ているそういう思意的な感情の発育の不完全さは一般の社会生活のありようと密接な歴史をともにしているものであり、そういう環境の中でおのずから我々の思意的な感情も今日にあって猶粗末なものであり、低いものであろうということも考えざるを得ない。
日本小説の性格形成の過程と西洋的なのとは根本的に相異があると武田氏が云われるとき、私の心には、それに連関する一つの事実として以上のようなことが浮んだのであった。そして、そのことから武田氏の結論をそれなり肯定するよりも、日本の小説性格形成の過程そのもののうちに既にある変化が生じているという感じをつよめ、同時に、現実から受け再びそれを現実へ積極な何ものかとしてもたらしてゆく生活感情そのものに、皮膚とともにきわめて日本らしきそのもののうちに、或る変化が生じていることを感じ直す心持に動かされるのである。客観的に今日の文化がそういう欲求を内包しているからこそ、散文精神の見直しが試みられもしたのであったろうと思う。[#地付き]〔一九三九年十一月〕
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
1951(昭和26)年7月発行
初出:「帝国大学新聞」
1939(昭和14)年11月20日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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