実に肉迫して行ってそこにあるものをそれなり描き出すことで、現代のあるがままの姿そのものに語らしめようという気持が基調となっていたと思う。現実の複雑な力のきつさに芸術精神が圧倒される徴候がまだ目新しいものとして感じられていた当時、西鶴の名とともに云われたこの散文精神ということは、のしかかって来る現実に我からまびれて行こう、そしてそこから何かを再現しようという意味で、文学上、一つの意気の示されたものであった。
 しかしながら、散文精神の発足にやはり時代のかげが落ちていて、芸術が現実へ働きかけてゆく面からそれが云われず、どちらかと云うと、現実の反映としての小説をより見たことは、散文精神が、市井風俗小説を多産するに至ったことで裏づけられている。
 先達てうち、再び散文精神ということがとりあげられた。それは要するにその点の再吟味であり、散文精神が今日の文学の受動性の枠づけとならぬよう、文学のリアリティーを風俗小説の範囲にとじこめぬよう、そのことが論ぜられたのであったと思われる。

 この二三年来、各作家はめいめいの個人の生きかたというものに、これ迄とちがった腰の据えかたをしており、そこでの実感というものが、文学の上で多くのものを語る因子となって来ている。そのこととして、これはもとよりわるいことでないし、一種の政治性で文学が吹きまくられ一律化されようとした危険のあったとき、それは必然に作家の文学というものへの本能から生じた文学の成長を護る態度であった。
 だが、生活の実感、生ける姿というものはどういうものなのだろうか。
 私はよく思うのだが、例えば、現代の日本の生活感情・文学の実感のなかで、今日現実に多くの人々が心に抱いて生きている思意的な感情というものは、どう生かされ描き出され人生に評価されているであろうか、と。日本の今日の文学は、人間感情のリアリティーとして思意的な感情というものを所謂《いわゆる》理性とか理知とかいう古風な形式にしたがった心理の分類によらぬ情緒そのもののリズムとして、情感として、どこまで承認し且それを描き出しているであろうか、と。
 これは明日への文学の課題としても面白いところではないかと考えられる。
 現代の日本の文学へは、行動の感覚と未だ区分されていない程度のものとして意力的な感情が少くない分量でもち込まれて来ている。それは、或る場面での実感の肯定として
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