現今の少女小説について
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)実《み》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)批評とか反向[#「向」に「ママ」の注記]とか
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今行われる少女小説について私は自分の荷にあまるほどいろいろの事を考えさせられるんです。
一寸行きずりに本屋の店をのぞいても飾ってある少女小説の数はほんとうに沢山でそれで又何故だか、「何子の涙」だとか、「何この歎」だのって云うのばかりですねえ。
少女小説って名のつくのは皆、涙だの、歎だのって云うんでなければいけないきまりが有るんでしょうか。
私はどう云うものかと思ってその沢山の中の二三冊読んで見ました。
それでどう云うものだか、と云う事を知りました。
私の読んだのは、どれもどれもみじめな可哀そうな娘を中心にして暗い、悲惨な、憎しみだの、そねみだの、病や又は死、と云うものをくっつけてありました。
それを読みながら、私でさえ淋しい気持になりました。又そうなる様に書いてあるんです。
まあ少女小説を読もうと云うのはどうしても十二三頃からいつまでも子供っぽい人は十七八まで面白がって読むらしゅうござんす。
そうすれば何でも物事に感じやすい極く極くセンチメンタルになる頂上を少女小説は通って行くんです。
十五六から二十近くまでの娘の心と云うものはまるで張りきった絃の様にささやかな物にふれられてもすぐ響き、微風にさえ空鳴りがするほどで、涙もろい、思いやりの深い心を持って居るんです。
この時代になれば、どんな幸福な家にある娘でも、何とはなし悲しい事ばかり考える様にもなります。
わけもなくて世の中がいやになる、そんなのもこの時分なんです。
注意深い母親はそう云う時代の娘を必してだまってわきから見ては居ません。
なるたけ愉快な仕事をあずけるとか又は自分のそばに置いていろいろな事をしゃべるとか、当人のこのんで居る事に力をそえてやるとかします。
けれ共そう云う母親はあんまりあるもんじゃあありません。
だまって本でも見て居れば安心して居ます。
斯う云う心理状態にある娘はきっと哀れっぽい涙ばっかり流さなければならない様な物語りばっかりすいて読むんです。
そしてまるで自分をその物語りの中に投げ込んで思うままに涙を流す事を楽しむんです。
けれ共
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