見落されている急所
――文学と生活との関係にふれて――
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三四年十一月〕
−−
九月号の『婦人文芸』に藤木稠子という作者の戯曲「裏切る者」という一幕ものがのっていた。私は雑誌を開いたときその表題を見たのであったがつい用事に追われ、そのときはゆっくり作品を読む機会を失ってしまった。
ところが今日、ある偶然のことから、「白道」という随筆の原稿を読むめぐりあわせになり、その随筆の作者が戯曲と同じ作者藤木稠子さんであることから、私は改めて戯曲をも読み直し、さまざまの深い感想に動かされたのであった。
「白道」で、作者は「私の過去の小さな生活記録」として、『婦人文芸』に「裏切る者」の掲載されたよろこびにつれ過去七八年間に亙る自身の文学修業の道を回想しているのである。農村の小地主の娘に生れ、物わかりのよい家兄のおかげで東洋大学にはいった作者が、その上級生の頃から文学的創作の慾望を感じはじめた。そして卒業後は自活のために非常に種々の職業を経験しつつ、現在では「エプロンの裾をぬらして台所にはいずり廻る仕事」をしてやっと食いつなぎながらも、猶創作の勉強を続けているという、文学のために思いきわまった一人の女の閲歴が書かれているのである。
どんなことをしても書くことだけは捨てまいとする作者の一念こった心持が理解されるために、私には一層この率直にかかれた随筆の内容が文学修業一般の根本的な問題にもふれて、多くの感想を呼びさました。
「白道」によると作者は、書くことをすてまいとして、これまであらゆる職業を中途ですてて来ている。東洋大学を卒業してすぐ官立大学の図書館に働くことになったが、「執務においては常に専門家であることを要求され、又満足に職をつづけて行く以上は専門家の域にまで進まなくてはならない」「このままでいたならば、私は遂に何もかもなくなって了う。」そう焦慮して、作者は「思い切って職を抛擲し、専心文学に精進しようと思い立った。」
だが、二三ヵ月で、その生活は経済的にゆきづまって以来、作者は、S女史という婦人作家の助手をやり、聾唖学校の教師になり、紡績工場の世話係、封筒かき、孤児院の保姆、小新聞の婦人記者と、変転する職業の一つ一つを、どれも本気に創作をするには適さない生活環境であると中絶して来て、今日では三ヵ月女中働きをして一ヵ月机に向って暮すという形の日暮しに立ち到っているのである。
作者は姉の家に手伝っている間にも、「いろいろ焦り、自分の書けないことが、まるで姉たちの所為でもあるかのように毎日当りちらし、ヒステリーのように泣いてばかりいるのだった。」
そのような自分の焦燥の姿をも認めながら、それをひっくるめてこれまでの全生活経験を文学修業にとっては「実に長い長い道程であった」のを感じ、「女性らしい一くさりの插話さえもない誠に殺風景な苦闘史」であったと見ている。そして、
「私はここでも、芸術の道すらも――或いは芸術の道であるためより深刻に――生活に困らない人間でなくては、とうてい出来ない仕事であると痛切に感じさせられた」と感慨しているのである。
私は、この随筆の作者が、文学修業の実際にとっては大した価うちとなるものを現実生活において見のがしながら、何か抽象的な情熱で、書かなければ、書かなければ、と日夜追いたてられているところに、誤って導かれた文学に対する理解の酸鼻を感じたのである。
『婦人文芸』の「裏切る者」というこの作者の一幕物は作品としては全くの習作であった。謂わばまだ全体がトガキのようなものだとも云えるであろう。しかしながら、作者はその習作においてがんこな農村の親族間のごたごたと、工場監督にはらまされてかえって来た千代という娘の悲惨を描こうとしている。千代に、「私……私がわるいんじゃないんです。みんな、あの監督さんがわるいんです」と云わせている作者はそういう作品と自身の実際の生活とを、どのような関係において、今日の社会というものを考えているのであろうか? 作者自身にとってこれははっきりされていないと私は感じたのであった。
文学を現実の生活から切りはなしたどこかで作られるもののように考え、感じ、焦るのは、ある才能をもすりへらしてしまう最も危険な誤りの一つである。
文学はわれわれの生きている現実の生活を突きつめてそれを芸術化して行くところに生れるのであって、われわれのぶつかる現実を、あれでもない、これでもないと、反物を選るときのように片はじからなげすてて行けばその底から或る特殊な文学的現実というものが忽然と現れ出して来るというようなものでは決してない。生活がその曲折と悲喜交々の折衝によって、われわ
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング