れに文学への欲求を起させるのであるし、様々な作品をもつくらせる。成程文学作品が我々の生活に影響する力は非常に大きいが、それは或る一つの文学作品が現実への迫真力の深さによって再び現実の生活を突き動かした場合であって、われわれが日々夜々生き、戦っている現実の複雑した社会生活という土台より切りはなされた文学が、生活を押しすすめる基本的な動力となることはない。
「白道」の作者が文学に対する愛着のあまり自身の生活におけるこの社会的な現実の本末を見誤って、七八年という歳月を文学修業に焦って来たと見るのは、私の浅見であろうか。
「白道」の作者は、殆ど痛々しいくらい、書かなければならぬ、書かなければならぬと、頭の内で叫んでいる。それにもかかわらず、作者としての眼を、どこに据えて作品を書いてゆくかということになると、何か忽々と自信なく爪立って自身の興味ふかい実際生活の彼方の空漠としたところを手探りはじめる観がある。
 自分が現代の日本の恐ろしい窮乏にある農村の、しかも小地主の高等教育をうけた娘であるという事実、そのような娘との交渉においていろいろ家計のやりくりなどと絡んで動く田舎の親戚達の感情、その表現としての微妙な仕うちというようなものは、農村という社会的な背景をもつ今日の文学の内容として取り上げて見るに価値ないものであろうか?
 図書館に勤めるようになった一人の若い作家志望の女が、その一見知識的らしい職業が、内実は無味乾燥で全く機械的な資本主義社会の経営事務であることを経験し、そこの官僚的運転の中で数多い若い男女の人間が血の気を失い、精神の弾力を失ってゆくのを目撃し、そのような働きと自分の人間らしい希望との間に激しい矛盾を感じて苦しむということは果してその女一人だけの感じるつまらない個人的な苦痛であろうか。現在われわれの棲んでいる世界には、自分の働きで生きてゆかねばならぬ女が何億人かあって、その苦痛こそは全く世界人口の半数を占める女の共通な苦痛の呻きではないであろうか。そのような人間として女としての苦痛の声は、文学に描かれるにふさわしくないものであろうか。
「白道」の作者は、抽象化された書かなければならないという憑物に目かくしをされて、自身既に自活しなければならない女としての二つの足で踏み入った文学の素材としての生活の宝の山を自覚しないで過ってしまったかのようである。
 作者は、
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