をするには適さない生活環境であると中絶して来て、今日では三ヵ月女中働きをして一ヵ月机に向って暮すという形の日暮しに立ち到っているのである。
 作者は姉の家に手伝っている間にも、「いろいろ焦り、自分の書けないことが、まるで姉たちの所為でもあるかのように毎日当りちらし、ヒステリーのように泣いてばかりいるのだった。」
 そのような自分の焦燥の姿をも認めながら、それをひっくるめてこれまでの全生活経験を文学修業にとっては「実に長い長い道程であった」のを感じ、「女性らしい一くさりの插話さえもない誠に殺風景な苦闘史」であったと見ている。そして、
「私はここでも、芸術の道すらも――或いは芸術の道であるためより深刻に――生活に困らない人間でなくては、とうてい出来ない仕事であると痛切に感じさせられた」と感慨しているのである。
 私は、この随筆の作者が、文学修業の実際にとっては大した価うちとなるものを現実生活において見のがしながら、何か抽象的な情熱で、書かなければ、書かなければ、と日夜追いたてられているところに、誤って導かれた文学に対する理解の酸鼻を感じたのである。
『婦人文芸』の「裏切る者」というこの作者の一幕物は作品としては全くの習作であった。謂わばまだ全体がトガキのようなものだとも云えるであろう。しかしながら、作者はその習作においてがんこな農村の親族間のごたごたと、工場監督にはらまされてかえって来た千代という娘の悲惨を描こうとしている。千代に、「私……私がわるいんじゃないんです。みんな、あの監督さんがわるいんです」と云わせている作者はそういう作品と自身の実際の生活とを、どのような関係において、今日の社会というものを考えているのであろうか? 作者自身にとってこれははっきりされていないと私は感じたのであった。
 文学を現実の生活から切りはなしたどこかで作られるもののように考え、感じ、焦るのは、ある才能をもすりへらしてしまう最も危険な誤りの一つである。
 文学はわれわれの生きている現実の生活を突きつめてそれを芸術化して行くところに生れるのであって、われわれのぶつかる現実を、あれでもない、これでもないと、反物を選るときのように片はじからなげすてて行けばその底から或る特殊な文学的現実というものが忽然と現れ出して来るというようなものでは決してない。生活がその曲折と悲喜交々の折衝によって、われわ
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