犬のはじまり
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)枸橘《からたち》

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 私がやっと五つか六つの頃、林町の家にしろと云う一匹の犬が居た覚えがある。
 名が示す通り白い犬であったのだろうが、私のぼんやり記憶にのこって居る印象では、いつも体じゅうが薄ぐろくよごれて居たようだ。洗って毛なみを揃えてやる者などは勿論なかったに違いない。日露戦争前の何処となく気の荒い時代であったから、犬などを洗ったり何かして手入れするものだなどと思いもしない者の方が大多数をしめて居たのかもしれない。
 薄きたない白が、尾を垂れ、歩くにつれて首を揺り乍ら、裏のすきだらけの枸橘《からたち》の生垣の穴を出入りした姿が今も遠い思い出の奥にかすんで見える。
 白、白と呼んでは居たが、深い愛情から飼われたのではなかった。父の洋行留守、夜番がわりにと母が家で食事を与えて居たと云うに過ぎなかったのではなかろうか。その頃の千駄木林町と云えば、まことに寂しい都市の外廓であった。
 表通りと云っても、家より
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