よい番犬の広告を見たり、犬好きの従弟の話をきいたりすると、それでも種々の空想が湧いた。一匹欲しいと思う。自分が飼ったら、注意深く放任して、決していやにこまちゃくれた芸は仕込むまいと云う私の持論を喋ることもあった。人間が人間らしくないのは辛いように、犬も犬でなくなるのは悲しかろう。私は、下町の心に自然な暢やかさがない者達が、いじらしい程怜悧な犬をつかまえて、ちんちんしろだの、おあずけだの、おまわりだのさせて居るのを見ると、まるで心持がわるい。主人と犬との間にひとりでに生じる感情の疎通で、いつとなく互に要求が解るだけでよい。故意と仕込むのは、植木に盆栽と云う変種を作って悦ぶ人間のわるい小細工としか思われない。世にも胸のわるいのは、欧州婦人がおもちゃにする、小さな、ひよわい、骸骨に手入れの届いた鞣皮を張りつけたような Pocket dog 或は Sleeve dog だ。私は、悠々した、相当大きい、誠実で熱烈なところのある毛の厚い犬を好む。Breed をやかましくは考えない。ありふれた、そして犬らしい犬が欲しいのであった。
 ところが今日、思いがけないことが起った。午後三時頃、私は一仕事しまって、おそい昼食を独りでとって居た。玄関の格子が開く音がした。そして、良人が帰って来たらしい。出迎えた女中が、
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「まあ、旦那様」
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と、驚きの声をあげ、やがて笑い乍ら、
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「何でございましょう!」
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と云う声がする。
 私は、サビエットを卓子の上になげ出して玄関に出て見た。私も、其処のたたきにあるものを一目見ると、我知らず
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「まあ、どうなすったの?」
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と云った。
 其処には、実に丸々と肥えた、羊のような厚い白の捲毛を持った一匹の子犬が這って居るではないか。
 仔犬は、鳴きもせず、怯えた風もなく、まるで綿細工のようにすっぽり白い尾を、チぎれそうに振り廻して、彼の外套の裾に戯れて居る。
 私は、庭下駄を突かけてたたきに降りた。そして
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「パッピー、パッピー」
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と手を出すと、黒いぬれた鼻をこすりつけて、一層盛に尾を振る。
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「野良犬ではないらしいわね。どうなすったの?」
「つい其処に居たんだ。通る人だれの足許にでもついてゆきそうにして居た。ね、パプシー」
「いきなりつれていらしったの?」
「いいや、暫く話をして居た。Here, Here, Puppy, give me your hand, give me your hand. なるたけ英語で喋った方がいい。」
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 見ると、稍々《やや》灰色を帯びた二つの瞳は大して美麗ではないが、いかにもむくむくした体つきが何とも云えず愛らしい。頭、耳がやはり波を打ったチョコレート色の毛で被われ、鼻柱にかけて、白とぶちになって居る。今に大きくなり、性質も悠暢として居そうなのは、わるく怯えないのでもわかる。
 私は
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「置いてね、置いて頂戴ね」
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とせびり出した。
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「裏の方で遊ばせましょうよ。ね、首輪がついて居ないから正式に何処の飼犬でもなかったのよ。ね、丁度みかん箱も一つあるから。」
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 良人は、
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「どれ」
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と仔犬を抱きあげ、北向の三坪ばかりの空地につれて行った。私も後をついて出た。
 地面におろすと、仔犬は珍しいところに出たので、熱心に彼方此方を駆け廻った。
 小さいつつじの蔭をぬけたり、つわぶきの枯れ葉にじゃれついたり、活溌な男の子のように、白い体をくるくる敏捷にころがして春先の庭を駆け廻る。
 私は、久しぶりで、三つ四つの幼児を見るように楽しい、暖い、微笑ましい心持になって来た。子供の居ない家に欠けて居た旺盛な活動慾、清らかな悪戯、叱り乍ら笑わずに居られない無邪気な愛嬌が、いきなり拾われて来た一匹の仔犬によって、四辺一杯にふりまかれたのだ。
 私は少しぬかる泥もいとわず、彼方にかけ、此方に走りして仔犬を遊ばせた。馴れて裾にじゃれつき、足にとびかかる。太く短い足の形の可愛さ。ぶつかって来る弾力のある重い体。ふざけて噛みつく擽ったさ迄、私には新鮮な、涙の出るような愉快だ。
 良人は縁側に出、いつの間にか
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「マーク、マーク」
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と云う名をつけて仔犬を呼んだ。
 マーク。アントニーを思い出し私は微笑した。夏目先生のところであったかヘクターと云う名の犬が居たのは。――
 此仔犬は、アントニーと云う貴族的
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