犬のはじまり
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)枸橘《からたち》

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 私がやっと五つか六つの頃、林町の家にしろと云う一匹の犬が居た覚えがある。
 名が示す通り白い犬であったのだろうが、私のぼんやり記憶にのこって居る印象では、いつも体じゅうが薄ぐろくよごれて居たようだ。洗って毛なみを揃えてやる者などは勿論なかったに違いない。日露戦争前の何処となく気の荒い時代であったから、犬などを洗ったり何かして手入れするものだなどと思いもしない者の方が大多数をしめて居たのかもしれない。
 薄きたない白が、尾を垂れ、歩くにつれて首を揺り乍ら、裏のすきだらけの枸橘《からたち》の生垣の穴を出入りした姿が今も遠い思い出の奥にかすんで見える。
 白、白と呼んでは居たが、深い愛情から飼われたのではなかった。父の洋行留守、夜番がわりにと母が家で食事を与えて居たと云うに過ぎなかったのではなかろうか。その頃の千駄木林町と云えば、まことに寂しい都市の外廓であった。
 表通りと云っても、家よりは空地の方が多く、団子坂を登り切って右に曲り暫く行くと忽ち須藤の邸の杉林が、こんもり茂って蒼々として居た。間に小さく故工学博士渡辺 渡邸を挾んで、田端に降る小路越しは、すぐ又松平誰かの何万坪かある廃園になって居た。家の側もすぐ隣は相当な植木屋つづきの有様であった。裏は、人力車一台やっと通る細道が曲りくねって、真田男爵のこわい竹藪、藤堂伯爵の樫の木森が、昼間でも私に後を振返り振返りかけ出させた。
 袋地所で、表は狭く却って裏で間口の広い家であったから、勝ち気な母も不気味がったのは無理のない事だ。又実際、あの頃は近所によく泥棒が入った。私の知って居る丈でも二つ位の話がある。けれども、其等の事件のあったのは、白の居る頃だったろうか、或は死んでからのことであったろうか。
 動物に親しみやすい子供の生活に、これぞと云う楽しい追想も遺して行かなかったことを見ると、白は、当時の私共の生活のように寂しい栄えないものであったと思われる。健康な、子供とふざけて芝生にころがり廻る幸福な飼犬と云うよりは、寧ろ、主人の永い留守、荒れ生垣の穴から、腰を落して這入る憐れな生物と云う方が適当であったらしい。
 犬殺し
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