金は五十万円ぐらいで、自殺であるとそれっきりであるが、他殺であるなら殉職として、国鉄公社のしらべによると最低百万円をくだらないことになる。
 故人は機械科出の技術者であった。そのポストが大整理という苦しい仕事に当面していず、たんまり利権の汁につかっている実利の地位であったのなら、いまの腐敗した政党人たちが、何でおとなしい技術出の個人にそんな椅子をゆずっておこう! 民自党の本質的なこわさが、故人の運命をアーク燈の光のように照し出している。したがって、故人の遺族は思いがけなく主人の身の上におこった悲劇によって、妻は主婦として行手の寒さに身をふるわせ、子息たちは、アルバイト学生の境遇を、自身たちの明日の身の上にうけ入れにくく思っただろうということもありえないことではない。良人をころし、父を失わさせたのは非人間の権力人事そのものであった。国鉄の名もない被整理従業員たちのだれかれの一家の、妻や子や年よりのおどろき、怨み、歎きとその本質は一つもちがうところのない恐慌が、故人の一家をおそったであろうという想像も許されるだろう。けれども、それに対してとられた抵抗と防衛の手段は、故人の官僚としての地位の必然によって、一国鉄従業員の場合とは全く反対にあらわれた。世間を疑惑のうちにのこしたまま、労働組合や共産党への毒素のような悪宣伝をみなぎらしたまま――遺族自身がのぞむのぞまないにかかわらず、その屍《しかばね》の最後の一片までを民自党の人民抑圧の政策の利用にゆだねるという悲惨な形で、いまの社会の官僚制度や保険制度の非人間性からのぬけ道を見出そうとされなければならなかった。その方法、この悲劇の社会的な原因を排除するのではなしに、かえってそれを掩護し、不合理の率直な告訴人となれないで、心ならずもそのかかし[#「かかし」に傍点]としてつかわれながら。
 これも一つの日本の悲劇であったと思う。あの事件に関して暴力をきびしく非難したのが発言者たちの真実の声であったのなら、最もはっきり暴力の罪悪性を断言した人ほど、こんにちでは遺族の名誉とヒューマニティーのために真実の暴力がどこにあるかということについて、説明者となる責任があるだろうと思う。社会的発言の場面を多くもっている人ほど、真実と正義に対する義務もより多く負うているのは当然だからである。
 生きてゆく生きかたそのものの現実に人民の権利の確立と民族としての独立をとりもどしたいわたしたちの欲求は、こういうモメントからも、ひとしお切実に目ざめさせられる。[#地付き]〔一九四九年十一月〕



底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年5月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「婦人公論」
   1949(昭和24)年11月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
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