、右の手と左の手のようなもので、聖書の文句にあるとおり、右手のなすところを左手にしらしむるなかれという関係におかれているのだろうか。
 こういう人間性の分裂と矛盾が、現代の権力あるものの避けがたい立場だというならば、最近の百二十年たらずのうちに、権力そのものの実質がゲーテの讚えたような属性をまったく失ってしまっている事実を物語る。ゲーテは「ファウスト」第二部で、より大きい善、人間の美徳、平和な建設を実現する可能をゆるされている能力として権力を見出している。現代でいえば一つの都市ぐらいしかなかった十九世紀初頭のドイツ小王国ワイマールの学友宰相であったゲーテは、その時代の性格とその政治生活の規模にしたがって、何と素朴だったろう。そして何と「宮廷詩人」的であったろう。ナチスが、ゲーテ崇拝を流行させていたわけもわかる。権力に従順な人々へのゲーテ賞もわかる。
 現代の帝国主義の国家権力の実質が、よりゆたかなヒューマニティーの力の表現といえないのが現実ならば、わたしたち一人一人が「失うものはこの世の不幸しかない」平《ひら》の人民の女であり男として生れたことを心からよろこび、評価してよいと思う。なぜなら、わたしたち人民の男女のヒューマニティーは、権勢とひきかえに奪われてはいないのだから。反対に、日々の労働の痛苦、いまの社会で母性が経験する大小無数の苦労。失業のいたで。生活の安定を見出そうとして階級として努力するその過程にうけている容赦ない政治的な経験などによって、わたしたちの、人民としての階級的なヒューマニティーはますます鋭くさせられている。近代社会で、資本に支配される権力からヒューマニティーが失われてゆく程度に応じて、権力をもたない地球上の絶対多数者である人民大衆の側からヒューマニティーの要求がつよくなった。
 この事実は文学にも生きていて、たとえばポーランドの婦人作家オルゼシュコの小説「寡婦マルタ」の悲劇のテーマが、もしきょうの日本でもう社会的に解決されてしまった問題ならば、日本の数十万の未亡人の境遇は、すべての面でこんにちそれがあるようにはないであろう。原因と結果とは互に作用しあっているから、もしもすべての女性が妻であり母であることによって、いよいよ勤労生活に安定が保障されているような社会ならば、したがって、太い潮が細々とした流れを吸いあげてしまうような金づまりだの、手にもっている御飯の茶碗をはたき落されるような馘首がおこる原因も減ることは明白である。
 失業の不安で波だつ空気の中に響いている声は、都民税二・七倍増し(失業者の家族でも都民であることに変りはありません)。外米の輸入(これで金さえ出せば、主食はいくらでも買えるということになります)。滞貨放出(金のある人にとっては衣料の面も楽になるでしょう)。ガスの制限もゆるやかになりました(ただし料金は今までの倍)。そして冬は石炭も手に入るであろう(一トン三千円から五千円の金があるならば――)。
 ここに、わたしたちを堪えがたくする現実の矛盾がある。理性のある社会の生活であると思うことのできないあからさまな不合理が強いられている。
 社会の新しい歴史は人民によってのみ推しすすめられる。この必然は、この現実のなかに生れてきているのである。

 国鉄整理にからんでおこった下山国鉄総裁の死は、最大限に政府の便宜のために利用された。共産党に関係のある兇悪な犯罪事件のように挑発され、一部の知識人さえその暗示にまきこまれた。ところが他殺でないことがわかったきょうでも、まだ死者に対するはっきりした哀悼は示されていない。
 命を奪われるほど悪人でなかった故人。むしろ弱点も人間的といえた故人。国鉄五十万人と運命をともにした故人。世間に暗い衝撃を与えることは、故人の望むところでなかったろう。自殺と直感した、といわれたときこそその人の妻らしい悲しみのありかたとして、すべての人にも肯かれたのに、いつか、他殺説を固執するようになった夫人の態度。勉学ざかりの少年、青年である子息たちが、色をなして自殺説を否定しはじめたという心理。それらを、世間の一部では、あれを政治的な、犯罪にしようとする検事局の圧力だろうと思った。時はたって、秋風がふきそめるきのうきょう、この不可解な状態のかげにひそむ一つの理由として生活的な問題がおいおい一般の推測に浸透してきた。丸の内の宏壮な建物を見てもわかるように、保険会社は富んでいるものだが、現在、生命保険会社の支払い方法は、他殺だと保険金詐欺でない限り普通の病死と同じに全額を支払うことになっているのだそうだ。自殺の場合、契約後一年――三年は全く支払わず、三年以上の分には多少弔慰金を出す。国鉄の退職金、弔慰金の支払い方法にも非常なひらきがつけられているのだそうである。故人の閲歴から見て、退職
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