結婚論の性格
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)慫慂《しょうよう》
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この頃は、結婚の問題がめだっている。この一年ばかりのうちに、私たち女性の前には早婚奨励、子宝奨励、健全結婚への資金貸与というような現象がかさなりあってあらわれてきている。そして、どこか性急な調子をもったその現象は、傍にはっきり、最後の武器は人口であるという見出しを示すようにもなって来ている。
女性のうちの母性は、天然のめざめよりあるいはなお早くこの声々に覚醒させられているようなけはいがある。若い女性たちの関心も結婚という課題にじかに向かっていて、婦人公論の柳田国男氏の女性生活史への質問も、五月号では「家と結婚」をテーマとしている。
若い女性の結婚に対する気持が、いくらかずつ変化して来ていると感じたのは、すでにきのう今日のことではない。去年、ある婦人雑誌が、専門学校を出て職業をもっている女性たちを集めて座談会をした。そのときやはり結婚問題が出た。そしたら、出席していた若い女性の一人が、自分には結婚というものがまだよくわからない。お友達にきいたらば、よい子供を生むために結婚はされるのだといったけれども、と語っていた。
当時その記事を読んでさまざまの感想にうたれたのは私一人でなかったろうと思う。専門教育をうけて、大学の研究室で何か仕事をもっている女性といえば、日本の知識ある若い婦人として代表的な立場にいるとすべきであろう。そのひとが、年齢やいろいろの関係から、結婚というものがよく分らない、というのは娘さんらしい自然さとして素直にうなずける。けれども、結婚と子供とをいきなり結びつけてそれを目的のようにいう感覚も、何かこれまでの若い女性の神経にはなかったことだと感じられた。それにそのひとは、自分の感情に結婚はまだわかっていないから、分るまで待って結婚したいと思っているのではなくて、いずれ両親の見出してくれる適当な配偶者と結婚するだろうということは明言しているのであった。
親の見出してくれた配偶者と結婚して幸福な生活がいとなめないなどと思う心持は毛頭ないけれど、それでも、この女性の感じかたはその時司会をしていられた片岡鉄兵氏をも何となしおどろかしたところがあったように見える。片岡さんは、少し意外そうな語調で、結婚は子供を生むためというより、それは自然のよろこばしい結果であって、根本には人と人との正しい結びつきを求めるのが、結婚の真の意味だろうといっていられた。
その記事が私を打ったのも、若い女性の胸に結婚という響きがつたえられたとき、そこに湧くのが当然だろうと思われる新しい成長への希望や期待や欲求の愛らしく真摯なときめきがちっとも感じられないと索然とした思いであった。
私たちの心には、結婚ときけば、そこに男と女とが互に協力し、困難の中にたすけあい、人間としてより高まろうとして営んでゆく日々の生活を思い描かずにはいられない熱いものがある。お互の、ひとには分らないほど深まりあった理解と、それ故の独特な愛の経営として結婚生活を感じとっているものがある。そして、少くとも人間らしい男女の結合としての結婚は、そのようなものでなければならないという翹望も明瞭に自覚されているのである。
だけれども、今日二十歳をいくつか越したばかりの一部の若い女性の感覚が、結婚といえば子供、と結びついて行くだけの単純なものになってしまっているとすれば、それは不安なことだと思う。子供といえば母としてのその人たちも考えられるわけなのだけれど、母の情感が人間生活にそんな単純原始な理解しかもたなかったら、どうだろう。どんな洞察こまやかさで子らの成長の過程と人生の曲折を同感し、励ましてやることができるだろう。
この頃いたるところにある結婚論で、立派な恋愛を生涯の結婚生活のなかでみのらしてゆくように、というような希望には全くふれられていないことは特色であると思う。
今日の結婚論は、先ず優生学の見地から、子供をもつ可能の点からいわれている。より強壮な肉体の配偶を互に選び合えということに重点をおいて語られている。
これらのことは、結婚の現実に幸福をましてゆく一つの大切な条件であるし、日本の女性たちはこれまであまりその方面の知識や関心が無さすぎた。そのために永い歴史の間で女性のたえ忍んで来た不幸はどれほどであったか知れなかった。今日の女性が、結婚の科学をも十分わきまえて、ますます強く美しい肉体の歓びをも満喫する生活を持ってゆくとすれば、それは本当にうれしいと思う。
だけれども、そうして優生結婚、健全結婚が慫慂《しょうよう》されるとき、今日の結婚論は、人間と人間との間にある愛として、結婚に入る門口として、互の理解の大切さを前提しないのはどういうわけなのだろう。
優良馬の媾配であるならば血統の記録を互に示し合って、それでわかると思う。人間の男女の結婚は、共同的な生活の建設であり、生活は複雑をきわめるものであって、永い歳月にわたって互が互の真実な伴侶であるためには、人間としての結びつきが深い土台となってくる。真の優生結婚は、肉体の条件の優秀さとともに精神の愛のゆたかさ、つよさ、活溌さにおいてもひいでたものでなければならないと思う。健全な結婚ということの実際は、十人の子供を持ったという結果からだけではなくて、その子供たちの父と母とが終生人間としての向上心を失わず、父は旧来の男の習俗におちず妻に対して誠実であるということからも見られて行かなければならないだろう。
それだのに、何故今日の結婚論が、早婚の必要と優生知識を説くにせわしくて、結婚を真に生活たらしめてゆく肝心の理解や愛の問題をとばして行っているのだろう。そこのところが、何か今日の結婚論にうるおいのたりない、人間の優しさや深味の少い淋しさを与えているのだと思う。
現代の考えぶかい人たちは、十九世紀のロマンティストのように結婚は恋愛の墓場であるという風なものの見かたはしていないのが現実だと思う。
恋愛の感情にしろ、天を馳ける金色雲のようには見ていないと思う。もっと、私たち人間が自然に生きてゆく毎日の感情のなかにある一つのものとして、互の理解に根ざした生活的なものとして感じていると思う。まじめなつつましい心のすべての若い人々は、架空の恋愛を求める気はなくても、互にわかりあえるあいてというものを見出して結婚したいという切実な願いはいだいていると思う。そして、そのようなわかりあえるあいてとして互を見出したとき、互に感じる魅力の飽きなさと、調和と、求めあう心などこそ恋愛の精髄で、それは結婚生活の永い年月を経ていよいよ豊富にされ、高められてゆくものだと知っているだろうと思う。
子供を産む、ということが女性にとって決して行きあたりばったりのことではないというところから、逆に、ホーソンの小説の「緋文字」のような悲劇もひきおこされて来た。
今日、産めよ、殖えよということにつれて優生結婚がいわれているとき、そこに達する過程として互の愛や理解のことが知らず知らずのうちに省略されているのは、目前の必要が性急であるのとともに、やはり日本の旧い習慣の影響だと思う。今日の空気のうちで物をいう人々の脳裡のどこかに、やはり結婚はまじめだがと、その前提の感情は別個のものとして、低くおとしめて見る癖がのこされていて、いきなり結婚、子供と素朴に出されているのだと思う。
実際の場合として、産め、殖やせという標語をそれだけの範囲でうけて、互に結婚して、偶然にも子供のもてない良人の体質であったとき、その女性はどうするのだろう。産み、殖す。それを目的として結婚したのに、その中心が失われたとすれば、もうその結婚は意味のないものとして、解体してしまうだろうか。そういう生理の条件であれば、愛着の心なんかは一つの感傷として踏みこえて、別の、子供をもてる男のひとをさがしてゆくのが自然な心の流れかただというのだろうか。
もし人の心がいつもそうゆくものならば、物事はむしろ簡単だろうと思う。ところが、そうは行かないこともある。子供が持てないとわかって、しかも互の愛着は深まさって、美しい人生を社会のために何か別の形で提供して行きたいと願う心で、離れがたい場合も起ろう。そのときその一組の男女の生活の健全なささえは、どこに見出されるだろう。人間としての理解と協力のよろこびが持てなくては、その生活はなりたたない。そして、そのような互の資質は、その時になって急に見出されるものでも、つくりあげられるものでないことは明らかである。
それにまた、このように産め、殖やすことの要求されている時代であるからこそ、その一面には、今日までの優生夫妻が、いつ、どこで、どのようにして、その肉体の条件に変化をこうむらないものでもない。現に今日の日本では、おびただしい良人と妻とが、離れ離れの平常でないあけくれを経験している。それらの良人、それらの妻は、どんな互のきずなによって、それぞれに多難な生活の事情のうちで互の誠実を処理して行っているであろう。ここにも直接産みふやしてゆくだけが、人間の結婚生活の全部でないという真実が示されていると思う。
昔の「女大学」は、子無きは去る、という条項を承認して女にのぞんでいた。再びその不条理な不安が、子のない妻たちをさいなもうとするのであろうか。
そうでなくても、子供のもてない不安で、これまで夫婦の生活に神経をつかっていた多くの妻たちは、この頃のような声々の中で、あるときはふっと、よそに生れる自分の良人の子供というものを思い、自分の感情がそれに馴れ難いことを新しく感じたりしていることが無いといえるだろうか。原因が何であるにしろ、今の空気は、子供をもたない一組の男女に、自分たちの生活の意味を考え直させるようなところがある。子供をもたない宮城タマヨ夫人が、婦人雑誌に子のない妻への言葉を書いているのも、その微妙な反映なのであろう。
若い世代は、あらゆるものを積極にうけいれて、自分たちの幸福のために活かして行くべきだと思う。これまで常識の中に欠けていた結婚の生理に関する知識や優生の知識が、この頃いろいろなところで語られているとすれば、それは躊躇せず生活というものを理解してゆく実力の中へとり入れて行くべきだと思う。そして真の優良な結婚というものは、それらを条件としつつ一層互にたすけ合い高まる人間の理解と協力の美しい力を必要とすることを学んで行くべきなのだと思う。
人と人との間に在り得る理解というもの、ましてやそれが種々様々の昨日と今日との歴史をこめて生きている男と女との間に在り得る理解というものは、実に私たちが成長しつつ生きてゆくことを可能にするいくつかの社会感覚の柱の中の、最も重大な一本であると思う。
結婚の核心にあるそういうものを明確に見ようとしないで、結果の方からいわれるとすれば、その単純さでやはり観念的だと思うのだが、若い女性が割合あやしまずにそういう観念化された傾きにひき入れられて行くようなのはどうしてだろう。
この問いにつれて心に浮かんで来ることがある。四、五年前に、若い女性たちの間で結婚はしたいとは思わないけれど、子供だけは欲しいと思うという表現がはやったことがあった。
若い女性たちのあいだに見られたそういういいあらわしかたの本心については疑問が抱かれて、当時流行のジイドの「未完の告白」のジュヌヴィエヴの模倣も大分あるというふうに判断されていた。
「未完の告白」は、知られているとおり、十六歳の学問好きな、そして母から伝えられた根気よさと自立を愛する精神をもつ少女ジュヌヴィエヴが、第一次のヨーロッパ大戦前のフランスの中流生活の常套の中で、俗っぽく偽善的な父親が強いている「良俗」に反抗し、自分の独立と自由とを主張しようとして、女性だけに可能な出産という行為でそれを奪いとろうと試みる。ジュヌヴィエヴはいかにも十六歳の少女らしく、鋭いが未熟で現実的でない思惟と情熱とで、自分に子供を与えてくれるようにと、科学の教師である医師
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