よろこばしい結果であって、根本には人と人との正しい結びつきを求めるのが、結婚の真の意味だろうといっていられた。
その記事が私を打ったのも、若い女性の胸に結婚という響きがつたえられたとき、そこに湧くのが当然だろうと思われる新しい成長への希望や期待や欲求の愛らしく真摯なときめきがちっとも感じられないと索然とした思いであった。
私たちの心には、結婚ときけば、そこに男と女とが互に協力し、困難の中にたすけあい、人間としてより高まろうとして営んでゆく日々の生活を思い描かずにはいられない熱いものがある。お互の、ひとには分らないほど深まりあった理解と、それ故の独特な愛の経営として結婚生活を感じとっているものがある。そして、少くとも人間らしい男女の結合としての結婚は、そのようなものでなければならないという翹望も明瞭に自覚されているのである。
だけれども、今日二十歳をいくつか越したばかりの一部の若い女性の感覚が、結婚といえば子供、と結びついて行くだけの単純なものになってしまっているとすれば、それは不安なことだと思う。子供といえば母としてのその人たちも考えられるわけなのだけれど、母の情感が人間生活にそんな単純原始な理解しかもたなかったら、どうだろう。どんな洞察こまやかさで子らの成長の過程と人生の曲折を同感し、励ましてやることができるだろう。
この頃いたるところにある結婚論で、立派な恋愛を生涯の結婚生活のなかでみのらしてゆくように、というような希望には全くふれられていないことは特色であると思う。
今日の結婚論は、先ず優生学の見地から、子供をもつ可能の点からいわれている。より強壮な肉体の配偶を互に選び合えということに重点をおいて語られている。
これらのことは、結婚の現実に幸福をましてゆく一つの大切な条件であるし、日本の女性たちはこれまであまりその方面の知識や関心が無さすぎた。そのために永い歴史の間で女性のたえ忍んで来た不幸はどれほどであったか知れなかった。今日の女性が、結婚の科学をも十分わきまえて、ますます強く美しい肉体の歓びをも満喫する生活を持ってゆくとすれば、それは本当にうれしいと思う。
だけれども、そうして優生結婚、健全結婚が慫慂《しょうよう》されるとき、今日の結婚論は、人間と人間との間にある愛として、結婚に入る門口として、互の理解の大切さを前提しないのはどういうわけなの
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