白だけで全部を表現する版画家の人生に対する感情にさまざまな点から新しい興味を喚起されたし、文化の程度の低い民族あるいは社会層の者ほど原色配合を好み、高級となり洗練された人間ほど微妙な間色の配合、陰翳を味わう能力を増すといわれているありきたりな概括にまで思い及んだのであるが、今度は立場を逆にして、画家はどの程度にまで自分の絵を鑑賞しようとする人々の生理的な条件――その疲労とか休安とかの実状を考慮に入れているであろうかと、こと新たな省察を深められた。
 勤労階級の生活感情を反映するプロレタリア絵画の領域で問題とされたのは、先ず第一に絵画の主題、題材の社会性であり、色彩はそれらのものに応じて自ら選択される必然性の範囲においてとりあげられていたように思われる。新しい理解で芸術におけるリアリズムが提唱された場合にも、持ち出されかたはほぼ同様であった。
 私には、自身のその経験――色が分っているがその色として感情にまで感覚されなかった時のおどろきが、その原因となった疲労から恢復した後も忘られなかった。そして、しばしば考えた。勤務する大多数の男女は激しく長い時間の労働によって疲れ、恐らく想像しているより遙かにつよい程度で色彩の感覚を麻痺されているのであろうが、プロレタリア美術のために努力している画家たちははたしてどのくらいまでそれを実感として把握しているであろうか。社会的モラルの問題となし得る先行的な事実、新たな芸術創造のための素地の探求、理解の具体性として、生活事情と色感とのなまなましい関係が今日の問題としていかに深められているか、と考えるのであった。

          二

 こういう一つの偶然な実験――体や神経の疲労がひどい時には、ある色彩が頭でわかっても、その色の感じを感覚的には感じられないという珍らしい経験をもって、私はそれから市ケ谷に移された。
 そこで又計らず他の経験をかさねた。
 あすこにはラジオがある。コンクリートの広い廊下のはずれの高いところに一つラジオの拡声器が据えつけてあって、朝ラジオ体操のかけ声を鳴り響かす。そして、たまに音楽の中継なども聴かすのであるが、どういうセットをつかっているのであるか、私のいた方のラジオでは第一放送と第二放送とがごっちゃになって聞えた。新響の放送であろうと思われるような交響楽が鳴り出して、諧調ある美しい音に神経が突然快くゆる
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