たしは、そう考えた。
 公的生活、私的生活ときいたとき、心に閃いたのは、現代の日本人民の生活では、実質的に、その二つが互に入れ替ってしまっている、という事実であった。私的生活という名で区分されていた日々の生活の諸面におこっているあらゆる問題のすべては公的な性質を帯びている。そして、習慣的に公的と思われて来た社会活動の面に夥しい私的生活がまぎれ込んで来ている。つまり、今日の日本では、二つのものが、さかさまになっているのではあるまいか。
 明治からの日本の文化史をみれば、われら日本の民草というものが、ただの一度もヨーロッパ諸国の市民たちが経過した市民社会の生活経験というものをもっていないことは、明かな事実である。長い長い封建の時代、命さえも自分に属するものではなく、武士は家禄によって領主に生殺与奪の権をもたれていたし、人民百姓は、手討ちという制度の下におかれていた。森鴎外の「阿部一族」の悲劇が、殉死のいきさつをめぐっての武士間の生存闘争であることに、二重の悲劇の意味がふくまれるのである。
 最近十数年間、日本人は「滅私」という標語で統一しようとされて来た。近代社会の必然として、いくらかは日
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