、男が来たと知ると我知らず手をあげて髪をなおすしぐさの、如何にも中年のああ云う商売の女らしい重々しさと情緒を含んでいたところ、三幕目に行って、小女お君に蛇の使いかたを教える辺。最後に、お君が復讐したと知って、断末魔の苦しみの中から、見るも物凄い快心の笑を洩す辺。流石《さすが》と思われるものがあった。
けれども、全体を通じ、忠実な少女お君に、主人の仇討ちを思い立たせるほど纏々としてつきない林之助への執着が統一した印象となって浮上らなかったのは如何したものだろう。
見世物小屋の楽屋で、林之助の噂をする時、菓子売の勘蔵に林之助の情事を白状させようと迫る辺、まして、舞台で倒れた後に偶然来た林之助を捉えて、燃えるような口惜しさ、愛着を掻口説く時、お絹は、確に、もう少し余情を持つべきであった。意志の不明瞭な林之助を、あきらめ切れないお絹の切な情が満ち溢れてこそ、最後の幕も引立ったのだが、肝心の処で見物を失笑させたのは惜しい。
勿論、宗十郎の林之助も甚だカサカサで、情味もなければ消極的な臆病さも充分出ていず、頻りにスースー息を吸い込んでは空々しい言葉を並べたから、お絹も、あれでは悪たれるしか、仕方がなかったのだろう。
栄三郎の小女お君は、内気に真心をつくしているのがしおらしかった。
一幕目で、朋輩の饒舌に仲間入りもせず、裏からお絹の舞台を一心に見ているところ、お絹が病気になってから、芝居の端にも、心は病床の主人にひかれている素振りが見え、真情に迫った。
ただ、一幕目で、お絹が舞台で倒れて担がれて来た時、無目的に駈け集った者の中から、せめてお君位は主人の衣裳に手をかけてもよかったろう。
今まで後ばかり向き続けていたお君の存在が其処で或る点まではっきりするばかりでなく、舞台裏から迄見守る実意があれば、あの場合、重苦しい着物をゆるめる気になるのが、女として心持の上で必然なのである。
お絹に、遺品として蛇を貰ったところと、お里の家へ忍び込む気になったところまで、感情の連絡に乏しい感じはなかったろうか。
私の心持から見ると、此「両国の秋」と云う芝居は脚本の根本に、何かお絹なりお君なりを、充分活かし切らないものがあったのではないかと思う。
お絹、林之助、お里、小女お君の四人にからんで、筋は情緒的に、生々しく発展すべき性質のものだ。そこへ人間の数が殖えすぎ、筋は、皆、傍の人
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング