気むずかしやの見物
――女形――蛇つかいのお絹・小野小町――
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)宛然《さながら》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九二三年七月〕
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伝統的な女形と云うものの型に嵌って終始している間、彼等は何と云う手に入った風で楽々と演《し》こなしていることだろう。きっちりと三絃にのり、きまりどころで引締め、のびのびと約束の順を追うて、宛然《さながら》自ら愉んでいるとさえ見える。
旧劇では、女形がちっとも不自然でない。男が女になっていると云う第一の不自然さが見物に直覚されない程、今日の私共の感情から見ると、旧劇の筋そのものが不自然に作られているのである。
けれども、例え取材は古くても、性格、気分等のインタープレテーションに、或る程度まで近代的な解剖と敏感さを必要とする新作の劇で、彼等は何処まで女になり切れるだろう。
舞台上の人物として柄の大きいこと、地が男である為、扮装にも挙止にも殊に女性の特徴を強調しつつ、何処かに底力のある強さ、実際にあてはめて見ると、純粋の女でもなし、男でもないと云う一種幻想的な特殊の美が醸される点などは、場合によって、多くの効果を齎す。
然し噛みしめて見ると、云うに云われないところに不満がある。矢張り不自然だと云うことになるのか。
今日の女優には、数百の見物の眼と、与えられた役割との間に迷って、兎角あまり素晴らしくもない素の自分を露出させて仕舞う芸術上の未熟が付き纏っている。女形には、芸の上に於て、其那腕のなさはない代り、どうしても、エキスプレッションが、女形の芸としての知識の範囲を脱し難い。真個の女性が無意識に流露させる女らしさが、微妙な隅々で欠けているので、天真の軟らかみが乏しいとも云えよう。女形の女性は、筋の上で与えられた性格の特質だけを強調する点ではうまいかもしれないが、それ等の底に流れ満ちている泉のような何ものかを胸に抱く事は、殆ど不可能であるらしい。
私は、「両国の秋」では梅幸の蛇使いお絹、その他を観、部分的のうまさには深く感心しながら、右のような感を押えることが出来なかった。
お絹の絶望的に荒んだ心持はよく出ていた。
特に、二幕目の始め、お絹の処へ林之助が訪ねて来た時、心に一杯の恨みと憤りとを持ちながらも
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