二重に成る訳です。
「彼」に対する愛に、自分は面も向け得ない冒涜を感じずにはいられません。
そういう時、若し、苦悩や悔恨の鞭を感じないのなら、それまでの愛は、それ限りの強さで、人格的の影響を持っていたので、つまり、その人に運命的なものでは無かったのです。
自分は全力を尽して、踏み誤った一歩を還すでしょう。然し、永劫に、誤った一歩は誤った一歩なのです。
かような、重大な、而して余りに人間的な行違いは何によって起り得るかといえば、自分は、一言「未全なる愛」といわずにはいられません。
愛の力は強いのです。愛し、拡大し、創造しようとする意欲は愛すべきものです。
けれども、憐れな、力ばかりある強い愛は、それを充分に導く叡智の多量を蔵さないばかりに、自分の力を持てあまして自分を傷け、殺してしまうのです。
私にとっては、自分の「まことなるもの」の感じる、我に非ず、他人に非ざる愛に到達するまで、刻苦に刻苦することが目下の大切な、恐らく一生を通じての行なのです。
あらゆるものの本体を見得る叡智と渾一に成った愛こそ願わしいものです。
自分は、愛の深化ということは、最も箇性的な、各自の本質的なものだと思わずにはいられません。
従って、既成の倫理学の概念や習俗の力は、いざ[#「いざ」に傍点]という時、どれ程の力を持っているのかは疑います。これ等はただ、その人の内奥にある人格的な天質がそれ自身で見出すべき道に暗示を与え、自身の判断を待つ場合、思考の内容を豊富にするという点にのみ価値を持っていると思います。
私は、過去に多くの人々が真愛に達し、輝きの自体と成ったのを知っています。
それ等の人が経て来た道程も明かにされています。
けれども、窮極に於て、自分は自分の道を踏まなければなりません。
宇宙のあらゆる善美、人類のあらゆる高貴を感じ得るのは、ただ、私自身の裡に賦与された、よさ、まこと、によってのみなされることではありますまいか。
こころよ、心よ……。私は、恭々しく謹んで、微弱な、唯一の燈火を持運びます。
[#地付き]〔一九二一年四月〕
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「女性日本人」
1921(大正10)年4月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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