たんですか」
「――そうだと思っていたの……」
Yは大きな看板を上げているツウリングのガレージが目的であったのだ。
「百花園」
と事務員が運転手に告げた。それが私共の耳にまで通った。
「あ、分っちゃった」
網野さんが首をちぢめ、例の小ちゃい金冠の歯が光り、睫毛の長い独特の眼が感興で活々した。
「行きましたか? 近頃」
「いいえ、でも行く前に一遍来たいと思ったんです」
堤を行くとき、
「言問《ことと》いでこの頃洋食をやっているんですってね」
と網野さんが云った。
荒れの後だし、秋が浅すぎるので百花園も大したことはなかった。萩もまだ盛りとゆかず、僅に雁来紅、百日紅《さるすべり》、はちすの花などが秋の色をあつめている。然し、人気なく木立に蝉の声が頻りな中に、お成座敷の古い茅屋根の軒下に繁る秋草などを眺めると、或る落付きがある。私共は座敷にある俳句を読んだりした。
「どうです? 一句――」
呑気に俳句の話が弾んだ。
「百日紅というのだけは浮んだんですけどね、下の句でなくちゃね」
網野さんが一寸本気になりかけたので皆笑いだした。すると、それにつづき、
「この間の皮と身と、はどうです、あれは傑作だったな」
と、Yがはあはあ笑い出した。網野さんは忘れたと見え、
「え?」
と云ったが、忽ち、
「ああ」
と自分も笑い出した。
三
一日に泊った翌日帰りしなになって、健康の話が出た。
「指で抓んで見て、皮と身が離れるのが分るようじゃいけないんだそうですね」
「そりゃそうでしょう」
「こうして見て――」
網野さんは軽く拇指と人さし指の先で自分の腕をつまんだ。
「じゃ、私はどうです」
「私は?」
網野さんは真面目な顔で差しだされた腕を一々抓み、
「すこうし――ね?」
と云った。
「どれ」
今度は私共が各やって見た。子供のぱっちりした体をそっと抓みよせて見ても、このように指先に皮膚と筋肉との境は知覚されないだろう。
「なるほどね――私なんぞひどい」
とYが感服した。
「年のせいもあるわ」
三人が抓みっこをしていたテーブルに、夕刊が一枚あった。私がどけようとすると、
「あ一寸」
とYがとめた。
「その本を買うんですよ」
石川啄木の歌が広告に利用してあった。
「働けど働けど我生活は楽にはならざり凝っと手を見る」
元○○新聞記者××著「金の廻し方、殖し方」
「ほんとう?――でもこんな本の広告に啄木の歌を使う時代なのね」
すると、Yが低い声でその歌をよんでいたが、
「――どうです――皮と身と離るゝ体我持てば――っていうのは。下の句をつけませんか」
「そうね……」
「何がいいでしょう……あ、こんなのはどうでしょう」
網野さんが云わない先から自分の考えのおかしさにふき出し、袂で顔を抑えながら笑い笑い、
「利殖の本も買ふ気になれり」
と下の句をつけた。
「え? 利殖の本も買ふ気になれり?」
ははは! それは傑作だ、と私共は涙の出る程大笑いをした。
「皮と身と離るゝ体我もてば利殖の本も買ふ気になれり」
うまかったな、網野さんはなかなかうまい、と百花園のお成座敷の椽でお茶を飲みつつ更に先夜の笑いを新にしたのだが、その時網野さんのユーモアということが、作品にもつづいて私の頭に浮んで来た。
「皮と身と離るゝ体我持てば利殖の本も買ふ気になれり」
思わず――その体の持主が私共だということ、それに利殖の本を結びつけた機智の面白さ――笑ってしまう滑稽さがあるが、このユーモアには何処やら淋しさがこもっているようではないか。小説集『光子』の中に集められている短篇でよいと思ったのが沢山あり、そのどれもが――例えば「棕」「質問」「時代」「巡査」など皆、その一種のユーモアによって印象に残されている。そのユーモアの網野さんが生粋の都会人であることや、細かい神経を持っていることや、一抹の淋しさを漂わした感情の所有者であることなどが直に窺われる。都会人らしい――それも町家の――心持に教養の加った気分で生活している間に、ひょい、ひょいと人生の明暗に触れる。そこにあの静かな少し淋しいようなユーモアが生じる。網野さんの芸術には勿論他に種々の要素があるとしても、この点はかなり主な独自性の一つだと思う。まあ例えば地味な色糸で繍った玉繍いのように粒一つが入念な筆致と、そのユーモアとが結びついて澄んだ心の境地を示している場合、小さい作品でも味が深い。同じ集の中の「海」などという沈んだちっとも上皮のきらつかない美がある。
四
暗くなってから、私共三人は百花園を出た。百花園の末枯れた蓮池の畔を歩いていた頃から大分空模様が怪しくなり、蝉の鳴く、秋草の戦ぐ夕焼空で夏の末らしい遠雷がしていた。帰りは白鬚から蒸気船で吾妻橋まで戻る積りで、暗
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