共に、やはり一片ならぬ矛盾、自己撞着を包蔵していることが見える。例えば中河与一氏の万葉精神に対する主観的傾倒と佐佐木信綱氏が万葉学者として抱いていられる万葉精神に対する客観的見解とは必ずしも全部一致しがたいと見るのが当然であろう。また、保田与重郎君の幻想と小宮豊隆氏の高度な知的ディレッタンティズムが肩と肩とを抱き合わせ得ないことも自明である。さらに長谷川如是閑氏が、文化の発展との関係において民衆のもつ自由と統制をどう見ているかということと、林房雄氏の日本観との間に或る開きがあることは一目瞭然なのである。こう見て来ると、今のところこれらアカデミックな人々の体面感を傷つけずに参与を可能ならしめるような表現では、会則や綱領がきめられないというところが、実際の事情ではなかろうか。会則、綱領がないと公言されていることは、一人の男が、私に主義というものはありませんと告白したと同様本来この上なく危っかしいことなのである。別な言葉でいえば、その時々の風の吹きまわしに吹きまわされることをみずから語っているのである。アカデミックな要素が加わったことで、一部の人々の極端な事大的追従が些か制せられるとあれば無
前へ 次へ
全15ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング