学批評の分野に、『文学評論』の巻頭言が警告しているような、唯物弁証法の図式的批評が「再発」しているということは、それが「再発」であるということのために、私はひとかたならぬ関心をよび起されたのである。
なぜなら、私自身、前にも書いたとおり、かつて作品批評に際して唯物弁証法の幼稚な機械的適用をやって、左翼的逸脱の危険を犯した経験をもっている。それにはそれで、当時のプロレタリア文学運動の情勢がきわめて有機的に私の心持に作用していたのであった。
簡単にいえばあの時分は、プロレタリア作家として自他ともに許していた林君などによって階級性を没却した文学の評価の傾向が強い勢でつくられつつあった時期なのであった。それに対して、もとの作家同盟の先輩たちは、当時の私にはその気持が全くのみこめないような受動的態度であった。そういう一つの傾向に対して正当に批評を組織してゆくどころか、正面からその問題にふれることさえなぜだかちゅうちょされているように見える状態が続いた。
今日になってかえりみれば、同盟の先輩たちが当時そのような無批評の状態におちいっていたのには、さまざまの複雑な私的公的のもつれ合った心理的な
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