月雨のころであった。父にあたる人は七年来の中風で衰弱が目立っていたから、母の琴平詣りも、ほんとうの願がけ一心で、住んでいる町の駅を出たのは夜中のことであった。私がお伴をして、尾の道で汽船にのった。尾の道と云えば「暗夜行路」できき知った町の名である。町を見る間もなく船にのりこみ、多度津につくやいなやバスにつみこまれ、琴平の大鳥居の下へついたときには、かなりの雨になった。
番傘を、下から煽る風にふき上げられまいと母の上にかざして何百段かの石段をのぼりつめたとき、更に高い本殿まで昇って椽側に腰をおろしたとき、私のこころは憤りでふるえるようであった。子を無事にかえしてほしいと思う母親、許婚の命があるようにと願う若い女。本殿のところに腰かけてみていれば、降りそぼつ雨にうたれて、お百度をふんでいる人さえある。せまい陰気な雨の境内は人ごみで雑踏し、賽銭をなげる音がし、祈祷の声がする。切ない心で諸国から集ったこれらの人々が、みんなあの幾百段をのぼって来ている。信仰の勿体なさを深くするため、印象づけるため、すべての流行する信仰建築は、きっとこういう途中の難関を計算に入れている。善光寺の山門までの長い単調な爪先のぼりの道中は何のためだろう。いじらしい人間の心を食い、無事息災をいのる心でたつきを立てるならば、せめて、年よりの足にたやすい方便を考えてもよいだろう。こういう願かけに、義弟の尊い生命の安危をたくしかねる私の心は、素朴な憤りにふるえた。こういうあわれな仕草で、自分の思いを表現するしかない人民の立場、しきたりが心に刻まれたのであった。
そういう憤ろしい思いで雨の中をのぼり下った琴平の大鳥居の下に、こういう小道や公会堂があって、暗いやるせない信心とはまるでちがう新しい気運が、そこで開かれている会合で活溌に表現されている現在が愉快であった。こういう著るしい歴史の対照のもとで、琴平の町が私の生活に再び登場して来ようとは思いもかけなかった。そういう心もちは、琴平の裏町のこまやかな風景をすなおに私に感じさせるのであった。
次の夜、雨の中を、おそく、電車から降りた。子供づれの友人の妻君も一緒で、石段がこれからはじまろうというとき、私は、
「ちょっと、ちょっと」
と、宿の提灯を下げて先に立って行ってくれる友人の一人をよびとめた。
「どう? くりぜんざいというものがあるんですがね、平気ですか?」
たべずに行っても平気かという意味できいた。石段が多いことで私をおどかそうとした友人であってみれば、その若い眼のはしに、栗ぜんざいというはり紙のある店を見ないで通ったわけではないだろう。琴平も面白いと思っている私は、栗ぜんざいに、いくらか興じてもいるのであった。
「――さあ、平気じゃないですね」
「そうなわけよ」
どやどやと賑やかに、小さな店へ入った。小さい女の子もいそいそと一人前に椅子にかけて、さて、小さいお椀によそって出された、栗ぜんざいを一吸いして、私たちは、しんみりとおとなしくなってしまった。やがて、女の子が情けなさそうに、
「もういいの」
と母親にお箸をかえそうとした。私は、子供が甘いだろうと信じて、フーフーふきながら吸ったこころもちが可哀想で、
「じゃ、これはどう? きっと、これをたべながらのむと美味しいかもしれない」
と、お芋のおでんをとってやった。
おでんのお芋は、黒芋で、大半黒くなっていた。
「じゃかえりましょうか」
又提灯に灯を入れてその店から雨の往来に出た。商人は今日もやはりあくまで琴平流に徹底している。母と来たとき、食堂のようなところで親子丼をたべた。たべたというよりも食べずにいられなかったのであったが、そのときの不親切な味の水っぽさ、もののわるさは忘れがたい。それだのに、くりぜんざいにはつい釣られた。栗とぜんざいとが別々にかかれていたのなら、私たちも大丈夫だったのに、と歎いた。自由平等と重ねてかかれていると、ふとそのままで実質がどこかにあるような気になるように、栗ぜんざいと書かれると、私たちのお人よしが甘い内容づけをして、さか恨みをすることになった。元気に鬱憤をはらしながら、私たちは、旅館へむかう石段をのぼっていった。
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:不詳
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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