いますよ。この間中の女君の中で一番かけのない御方でございましょう、そんなことを申しては何でございますが若奥様よりもよっぽど何でございますよ」
女はまじめな熱心な様子ではなしをつづけて、
「ネ、若様、あの方なら貴方様の御方様に遊ばしても御立派でございますよ、御よろしければ……」
からかうように女は云って光君のかおをのぞき込んだ。
「マア、そんな事は云っこなしに御し、困るもの」
小さい声で云ってぽっと頬を赤くした。まわたにくるまって育った処女のように心の中で、
「私の心をしって居るんじゃあないかしら」
と見すかされたような心地がしてその視線をさけるように又巻物の上に目を落した。此の頃光君は、何となく淋しい悲しい心のどこかにすきの有るような心持の日がつづいた。光君は、美くしい色の巻物をしげしげと見ながらしずかに自分の心にきいて見た、「何故こんなに淋しいんだろう、もとと同じに暮して居るのに」
そう思って心の中に住んで居る小さいものにきこうとしてフト何か思いあたったようにそのほほをポッと赤くしてひそんで居るものを見出して居るようにあたりを見まわした。
「ネー若様、この頃貴方様はどうか遊ばしましてすネー。私達にはもうちゃんとわかって居ります。もうちゃんとおっしゃったらようございましょうものをネー」
ほほ笑みながらさっきの女は若い小さいものをいたわるように云う。
「変だって、何にも自分には変な事はないんだけれ共、わかってるって何が分って居るの、おしえて御呉れ」
「御自分の御心に御きき遊ばせ、世の中の若いまだ世間を知らない方なんと云うものは、とっくに人の知って居ることをなおかくそうかくそうと骨折りをしてその骨折がいのないのを今更のようにびっくりするかたが多いもんでございます。貴方さまも其の中の御一人でいらっしゃいましょう」
「そんなことはきっとない、だけれ共ネ……マア好い、もうそんな事は云いっこなしさ」
光君は居たたまれないようにクルクルと巻物を巻いてわざと、机のわきにすわって、思い出したように墨をすって手習をはじめた。女はそうと立って行って光君の肩越しにのぞくとこの間の宴の時に紫の君の詠んだうたを幾通りにも幾通りにも書きながして居たので、何か見出したようにかるくほほ笑んでかげに行ってしまった。こんなにえきれない、うつらうつらとした日を光君は毎日送って居る。
毎日きまった事はちゃんちゃんとして行ってもあとは柱にもたれてボンヤリして居たり何かもうどうしても忘られない事をしいてまぎらそうとするように、涙の出るような声で、歌をうたったり、琴をひいて居たりして段々何となく物思わしげな病んで居るような様子になって、三度のものなどもあんまりはかばかしく進まなくなった。女達はもうすっかり察して居るので、
「御かわいそうにネー、もう皆知って居るんですもの、そうおっしゃりさえすれば大奥様に御相談してどうにでもなるものをネー、又そこが御可愛いいんだけれ共」
「何だか物語りにでも有りそうじゃあありませんか、ネーそして夕方なんか、あの姿でうす暗いなかにうなだれて居らっしゃるところなんかはまるで絵のようです」
なんかと云い合って居る。
「ネー若様、ほんとうに大奥様に申し上げてもよろしいでございましょう、そうすればどうにでもなるんでございますもの」
と乳母はそれに違いないと思ったので云って見たがやっぱり、
「そんなことを幾度くりかえして云って居るんだろう。本人がそうでないって云ったら一番たしかだのに、ネ」
といかにもいやそうに云うのでそれもならずに、どうしたら好かろうと迷って居る。この頃、気分がはっきりしないと云って朝から、被衣《かずき》をかぶってねていられるので乳母はとうとう大奥様――光君の母上のところに云ってやった。
「私からじかに文なんかをさし上げましてまことに失礼でございますが若様は何だか少し御様子が常と御変りになっていらっしゃります。彼の花の御宴の時からと申し上げましたら大抵御心あたりの御有りあそばす事と存じます。私もいろいろ申し上げて見ましたが何でもないとおっしゃるばかりで……
どうぞ大奥さまから御文でも若様に下さいますように、この頃のうちしめった御天気の中で心配を持ってくらして居ります私の心も御察し下さいまして」
とこんなことを云ってやったんで母君のところから、家中で一番可愛いと云われて居る童が見事な果物にそえて文をもって来た。面倒くさそうによんで見ると、
「乳母のとこからの手紙に貴方の気分がすぐれないようだと云って来ましたが、もし体がわるければ典医を上げても好い――気に入った僧に御いのりをしてもろうてもいいでしょう。若い人にあり勝のことでなやんで居るのなら親身の私だけにおしえて下さってもいいでしょう。出来るだけの事なら力もそえましょうしネエ、どうぞ私にかくしたことをそう沢山持たないようにしてこの老[#「老」に「(ママ)」の注記]とった私に心配させないで下さい」
と書いてあった。光君は、あんな枯木のようになった、血もなんにも流れていないような母君にどうして私の思って居る事を私の満足するようにすることが出来るはずがないと思いながらそのつやのない墨色を見て居ると、
「御返事をなさらないんでございますか、何とか申し上げましょうか」
ときいて居るのに、
「有難うってネ、云ってお上げ」
と云ったきりでまただまりかえって居たけれ共夜が更けると一緒に段々目がさえてこまったと云って当直の女をあつめていろいろな世間ばなしをさせたり物語りの本をよませてなど居たけれ共中々ねむられそうにもなかった。
いろいろのはなしの末に一番まだ年若なつみのない女が、
「この頃ネー、西の対の紫の君さまのところへ」
と云い出したのを一人の女がおさえつけて、
「ほんとうに紫の君は珍らしい御方でございますことネー」
と云い消そうとして云ったのを光君はすぐきいてしまったのでだまって衣のはじをひっぱって居た手をとめて、
「もう皆に知られてしまったからかくすのはやめにした、だけどいろいろな事を云ったり笑ったりしちゃ私が困ると思って居たんだから」
と云ってよこを向いてしまう。女達は皆目を見合って急に荷散るように笑い出したら光君までまっかなかおをして笑い出してしまった。
「若様、大丈夫でございますよ、そんなこと」
と云ってまだオッホホホホと笑って居る。彼の年まは一番笑いこけながら、
「ネーやっぱり私が目が有ったでございましょう、でもよく今までもちこたえて居らっしゃったこと」
なんかと云ってひやかして居た。光君は気が狂ったように笑ったりふさぎ込んだりして夜を明してしまった。
翌日はまた春に有りがちなしとしと雨が銀線を匂やかな黒土の上におちて居た。落ちた桜の花弁はその雨にポタポタとよごされて居る。
光君は椽に坐って肩まで髪をたれた童達が着物のよごれるのを忘れてこまかい雨の中を散った花びらをひろっては並べならべてはひろって細い絹の五色の糸でこれをつないで環をつくって首にかけたり、かざして見たりして居るのを何も彼も忘れたように見とれて居た。気のきいた子が一番念入りに作ってあげた環を光君は、はなされないように自分の前にならべて置いていろいろのことを書きつけてそれにむすびつけて居た。その中には、
[#ここから3字下げ]
花散ればまぢりて飛びぬ我心 得も忘れ得ぬ君のかたへに
悲しめる心と目とをとぢながら なほうらがなし花の散る中
かなしめばかなしむまゝにくれて行く 春の日長のうらめしきかな
[#ここで字下げ終わり]
などと細い筆でこまかい紙にかいては白銀のような針でつけて居る姿を女達は、「ほんとうにまるで絵のようです事」と云い合って居た。
灯のついてから西の対の童が、
「貝合せをするからいらっしゃってはいかが兄君も二人の娘も見える筈です」
と云う文をもって来たので早速衣をととのえてよろこびに戦く心をおさえながら母君の部屋の明障子の外から、
「ごめん下さい私です」
と声をかけると声のやさしい女は細目にあけて黛を一寸のぞかせて、
「ようこそ、どうぞ御入りあそばして」
と云ってすぐ几帳を引いてしまった。
「よく来て下さったこと、今に兄君も常盤の君も紫の君も見えるでしょうからね」
とうれしそうに云いながら女に自分の几帳の中に方坐をもって来させてその上にすわらせて一年毎に美くしさのましてかがやかしくなって来る子のかおを見ながらいろいろのはなしの末こんなことを云い出した。
「貴方この頃どうしたの、かくさずと教えて下さいナ、大抵は私だって察して居るんだもの」
「別にどうもいたしません、何を察していらっしゃるの?」
「だからかくして居ると云うんですよ、貴方は思ってる人が有るんでしょう」
「有ったってなくったってそんなこと……いくら貴女が心配して下さっても人の心は思うようになりませんもの」
「だって、そんなに云うのがいやなら、何だけれ共――どうにかなるかと思ったものでネー」
光君は母君の自分をいかにも子供あつかいに何でもかんでも自分で世話しようとするのがいやなような心持になった。
「こんなことで段々私達母子ははなれるんじゃああるまいか」
こんなことも思って見た。
「何でもかんでも母にきかせてよろこんで居られない自分は不幸なのかも知れない」
こんな思いもあとからわき上った。いろいろな思いはわかい柔い心の前をはやてのようにすぎて行く。光君はだまって目をつぶって心をしずめようとして居るところへ兄君が入って来た。
「オヤ、マア、珍らしい方が見える。貴方はこの頃大変風流な御病気だそうだけれ共まだ死んでは割が悪そうですよ」
坐りもしない内からこんなことを云う。
「そんなことをおっしゃるもんじゃあありませんよ、私は何でもなくってもはたでそうきめてしまうんですもの」
幼心な光君はまがおになって云いわけをするとそれを又からかって笑いながらからかって居る。
「貴方の姿が美くしいと云って沢山の女達が思って居ると云うことですネー。私なんかはどうかして思われようとつとめてさえどうしたものかたれも思ってくれない、たまに思ってくれる人が有ると思えば下の下のうずめの命よりなお愛嬌のある人なんかなんだもの、貴方はよっぽどまわりあわせの好い日に生れたに違いないネーそうでしょう」
「まわりあわせが好いんだかわるいんだかわかるんですか、人の思うよう思わせておきましょう」
「大変さとったことだ事、でもさとりをひらいたようでさとれないのが人間の好いところだもの」
こんなことをいい気になってしゃべり立てて居る。
「一体女なんて云うものはいろいろ男に察しのつかないところばかり沢山有ってね」
いきなりとってつけたようにこんなことを云い出す。
「そうでしょうか」
光君は幼子のようにびっくりしたかおをして話をきいて居る。
「だけれども又そこが好いとこかもしれない。やたらにものをかくしたがったり、下らないことに泣いたり笑ったりほんとうに不思議なものだ、貴方はそう思わない?」
「思う思わないって、そんなことがわかるまで女の人につきあったことはないんですもの」
「つきあったことがないって、マア随分うまいことを云っていらっしゃること、あんまりつきあいすぎて何が何やら盲になっちゃった方らしいくせに」
兄君はこんな皮肉を云ってその女のようななでがたをつっつく。
「おやめなさいよ。そんなこと、母様が何と思っていらっしゃるか」
おじたように母の方をぬすみみるようにする。
母君はだまってほほ笑みながら仲の好い兄弟をうれしそうに見て居る。
「ネー母様、ほんとうにそうですネー。云っちゃあ悪いんでしょうか此の人はどこまでもしらっとぼけて居るきなんだから」
「マアマア、そんなに云うのは御やめにしてネ。少しはこのごろの様子でもはなして下さいよ。私年とってからはあんまりほかの人の部屋にもゆかないんでネ」
「また母さんの年よった年とったが初まった。人って云うものは妙なもので死ぬ死ぬと云う人は死なないもんで年とったと自分で云う人は案外年をとらないもんでネー」
兄君
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