い様になった弟君は、
「どうぞあの人の部屋につれて行ってお呉れ、只あの人の部屋に行った丈で満足するのだから」
と云われたが乳母はどうしたものかと考え込んで一寸には返事をしないで居ると、
「それもいやなのか、御前は思ったよりたよりにならない人だった。私はけっして彼の人を苦しめる様なことはしない、私はあの人を死ぬほど思ってるんじゃないか」
 乳母はまだだまって居る。
「お前はまだだまって居るのカエ。私は自分の命のもう長くない事を知って居る、思い出にどうせ死ぬ命ならと望んで居るのにそれさえお前は許して呉れないのか、私は自分の生の母よりも御前をたよりにして居るのに」
 光君の目には涙が出て唇はかすかにふるえて居る。
「私はあの方の乳母に対してあの御方の部屋に御つれ申すことは出来ませんが、道導べに柱に赤い糸を結びつけて置きますからそれをたよって御出になれる様にいたして置きましょう」
 乳母はようやっと答えた。
「それでは夕方から行こう」
 弟君は嬉しそうに目を輝して居る。フックリと形よく肥えていつもさくら色した頬や、若々しく輝く両の瞳が生れつき形の好いかお立ちをたすけてその美くしさは若々しい力のこもったものであったのが、この頃は頬は青くこけて瞳は怪しい曇りを帯びてにごって香う様な鬢の毛許りがますますその色をまして居る、物凄い、さむい様な美くしさである。
 光君は、朝夕鏡を見る毎に日ましにつやをます鬢の毛、日ましにこけて行く両の頬を見て淋しい微笑をうかべて居た、その衰えてますます美くしさのました体をかかえて光君はどんなに日影の斜[#「斜」に「(ママ)」の注記]くのを待ちあぐんで居ただろう。ボンヤリと脇息によってあてどもないところを見つめながら小さい吐息をついて自分の不幸な身の上を思って居られた、その様子を見た女達はこんなにお美くしい方をどんな方でもいやにお思いになるはずはないのに彼の方はほんとうに妙な御方と云い合って居た。夕方になった、待ちあぐんだ光君は幾日ぶりかにその身を部屋のそとに見せた。光君は長い廊を角々の柱に結びつけた赤の糸をたよりにたどって行かれた。道しるべの紅の細糸は親切に光君を迷わすことなく紫の君の部屋の前まで導いて来た。その人の部屋の前に立った時、光君は今更の様に胸をとどろかせてぬり骨の美くしい明障子の立った様子を見た、何の音もなくしずかな部屋の中には時々柔い衣
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