ゆっくりと内ポケットから名刺ばさみをとりだし、狭谷町青年学校主事、狭谷町醇風会理事、その他二つ三つ肩書を刷りこんだ名刺を瀧子に渡した。そして、ともかく縁端に花筵の夏坐蒲団を出して怪訝そうに応待しはじめた瀧子に、山口は結婚を申込んだのであった。
「あなたの聰明さや優しさは既に村でも定評があるんですから、僭越のようだが、却ってこういう僕のやりかたに真実を認めて頂けると信じているんです」
 瀧子は栗色っぽい柔かい髪がひとりでに波を打っている色白な額ぎわを素直に傾け、遠くはなれて坐りながら、山口の云うことを聴いていた。前の妻をヒステリーで離婚したというのや子供が二人あるという条件をも、瀧子は別に初婚である自分に対しての屈辱という工合にはとらなかった。瀧子が二十七までひとりでいたには、格別の識見があってのことではなかった。彼女の人がらが誰にも好意をもたれるにつれ縁談はこれまでいくつかあった。しかし、それはどれも地方らしく所謂《いわゆる》仲人の話で、感情のおだやかな、淋しがりでもなかった瀧子に特別の好奇心も起させなかったままに過ぎて来ていたのであった。
 山口が、よかれあしかれ仲介のひとの話では心持がそのまま伝えられないからと、自分から出向いて来た、そのことはなんとなく瀧子にこれまでの話とは異った一抹の新鮮さを感じさせるのである。
 溝口さんにも相談してと言って山口をかえしたあと、瀧子は土間で湯をわかし、髪を洗った。快く梳《くし》けずられてゆく長いたっぷりした髪を背中にさばいて、濡縁のところで涼んでいると、何心なく持っていた手鏡の中に小さく月がうつっている。畑のむこうの杉林の梢のところが黒々と瀧子の白地に朝顔を出した浴衣の肩のあたりを横切ってうつっていて、その上の空に月が皎々《こうこう》と輝きながら泛んでいる。しーんとした夜の縁端で鏡の中に迫って鮮やかな自分の生きている一人の顔と遠景をなしている月や森を凝っと見ていると、日中のきまりきった暮しの表面からでは見えない人生の刻み目があって、そのひとつが今夜珍しくも自分に呼びかけても来るように感じられて来るのであった。
 翌る日の午後、瀧子は汽車を二駅乗り越して、師範が同期の親友、溝口ゆき子の家へまわった。
「ごめんなさいね、暑いわねえ――」
 簾のかげで、早速オリーヴ色の重い袴の紐をときにかかる瀧子を親密さのこもった眼差しで見上げな
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