種の張合や熱中を感じて来る――そんな傾向があるのであった。論文でも、文学的作品でも、よいのが集まると、氏は、実に悦んでそのことを話した。瀧田氏のそのよろこびは、単に、雑誌の編輯者という立場からばかりでは決してなかった。氏自身、芸術鑑賞上一見識を持ってい、芸術愛好者としての純粋な亢奮が伴うのであったらしい。氏が、ジァーナリストとして他と違っていた大きな点はここにもあった。よい芸術品を得たい熱情が、編輯者としての利害と結びついた形であった。
瀧田氏に会うのは、一年に僅か数度であったが、その時分、氏はいつも、奥ゆきのたっぷりした俥に乗って来られた。羽織、袴であった。そして、早いうちから、まだ夏になりきらないうちから、勢よく扇を使い使い話す。田中王堂氏の原稿は、書き入れ、書きなおしで御本人さえ一寸困るようだとか、多分藤村氏であった、有名な遅筆だが、(鵠沼の東屋ででもあったのだろう、)おくれて困るので出先まで追っかけて、庭越しに向い合わせの座敷をとって待つことにした。さて藤村氏の方はどんな工合に行っているかと硝子障子のところから見ると、一字書いては煙草を吹かし、考え、考え、やっと一字書いたが、消す。煙草、煙草、また一字、という風で、自分まで実に辛かったとか。そんな断片的な話をよくされた。二十前の小娘を相手では瀧田氏もその位の話題しか見出せなかったのだろう。丁度、田村俊子氏の生活が動揺し始めた頃であったと見え、非常に疲労の現れた作品を送ってよこしたということも聞いた。素木しづ氏も存生で、一人お子さんが生れた当時であった。生活が楽でなく、困り抜いた揚句であったろう。深夜、一台の俥に脚の不自由なしづ氏と赤ちゃんが乗り、良人であったU氏が傍について西片町の瀧田氏を訪ねて来られたのだそうだ。金策の相談があった。けれども、瀧田氏は、誰でも知るあの言葉つきで、
「断りました」
と云った。
「なぜ?」
「私は一さい情実に捕われないことにしています……書いたものを買うなら別だが」
一つの插話にすぎないが、私は、氏の編輯者道とでもいうべきものの一端を見るように思った。
大正九年の初夏に一度、西片町の家を訪ねたことがあった。二階の部屋に通された。そこには、氏の特に愛蔵する夏目漱石氏の書、平福百穂氏の絵などが豊富に飾られてあった。別に、鴨居から一幅、南画の山水のちゃんと表装したのがかかっていた
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