ていくかということを、改めて考えてみるべき日でもある。三・一五の記念日をあの時代のこととして、ただ暦の上でだけ記念するならば全く意味はない。ひっくるめて、三・一五といってしまえば、そのなかには今日私たちがはっきり敵として理解しなければならぬ人々をもふくんでいるのであるから三・一五を記念するならば、三・一五の検挙を通じて今日まで一貫して勤労階級の解放のために闘いつづけている人々を記念しなければならない。今日の社会事情と党の合法性とのなかで三・一五のほこるべき伝統は、私たち一人一人のなかにどんな具体的な今日の形でうけつがれているかということこそ見極められなければならない。三田村たちが非合法活動の方便に名をかりて、放蕩していたことはすべての文献にのこっている。今日封建性に反対するという名目で私たちの間に性的な放恣がないであろうか。インフレーションはたれの経済生活をもうちこわしている。インフレーションに名をかりて、金の上でのルーズさが案外見のがされているところがあるのではないだろうか。勤労階級の解放というような大事業をめざしている共産党員がそういうことについて気をくばることは私的な些事であるか
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