で、頭をつつんだ肩掛の中から白い息をたてながら並木道を歩いた。
 ――どう? お前さんの体工合。
 ミーチャの母さんがきいた。
 ――あれらしいわ。
 ――姙婦健康相談所へ行ったの?
 ――それで分ったのさ。
 ――心配することは何にもありゃしない。
 ――…………。
 若いタマーラは黙って肩をもちあげた。
 ――だってお前さん、丈夫なんだろう?
 ――そりゃそうよ。
 ミーチャの母さんは暫く黙って歩いてたが、やがておだやかな碧い瞳一杯に花の咲いたような微笑をうかべて行った。
 ――私たち、いわば国家の母さんだからね。子供だって国家の赤坊さ。安心おし。
 ミーチャの母さんは、労働婦人は、産前産後四ヵ月の給料つき休暇の貰えること、赤坊の仕度金と九ヵ月の特別哺育費が国庫から支出されること、産院が無料であることなどを、その簡単な言葉の中で、タマーラに思い出させたのだ。
 タマーラは何とも云わない。でも工場近くなると、托児所へあずける子供を自分の肩かけの中へ抱き込んで通って行く労働婦人を、今日は一種特別注意ぶかい目つきで眺めた。
 ミーチャの母さんは、工場の門の中で、背の高い、さっぱりした黒外套の女に出会った。
 ――ああ。ナターリヤ・イワーノヴナ、今日は。
 托児所の保母は、ちょっと見なおして、アンナを思い出した。
 ――今日は。ミーチャのお母さん。どうですミーチャは。ちっとも後のお代りが来ませんね。
 ――こんどは、このひとの赤ちゃんを願います。
 そう引き合わされてタマーラは笑い、すこし顔を赧らめた。
 ――ミーチャが、今朝どうしたのか、托児所の二十日鼠を思い出したんです。そして、生きてるだろうかって心配してましたよ。
 ――生きてますとも! ワロージャが家からあと二匹もって来てもう子鼠が出来ましたよ、ミーチャに、見においでって云って下さいな。
 ナターリヤ・イワーノヴナはクラブの横を通って、托児所の方へ行った。ミーチャの母さんは、タマーラと出勤札をとりに事務所へ行った。
 その時刻、ミーチャは、幼稚園で、朝日のさす窓の前へ如露を持って立っていた。水は光って、転がって、鉢の西洋葵の芽生を濡した。[#地付き]〔一九三一年三月〕



底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房
   1952(昭和27)年12月発行
初出:「女人芸術」
   1931(昭和6)年3月号
※「――」で始まる会話部分は、底本では、折り返し以降も1字下げになっています。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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