に傍点]が、こういう智慧を出して逃げたのは、これが初めてではなかった。世間には、まま酷い主人があるものだ、足りないのは。
本人のいほ[#「いほ」に傍点]だけになると……煙草屋の婆は、ひそひそ訊いた。
「それで、お前さんいつ逃げ出すの?」
いほ[#「いほ」に傍点]は、そう訊かれると、埃でも入ったように目瞬きをした。
「私困っちゃうことが出来たのさ、毛布がね、取れないんだもの」
「へえ」
「毛布だってね、ただの毛布じゃないの。阿母《おっか》さんが呉れたんでね、黄色と茶色の縞でそりゃ暖いの。今あの人が掛けてるのよそれを、夜。あんなのとられちゃあ私口惜しいからね、そのうち、ばれないように巧く持って来るわ」
久しくいほ[#「いほ」に傍点]は煙草屋に来なかった。或る夕、表をかけて通るのを、婆さんはやっと呼びとめた。
「どうするのさ」
いほ[#「いほ」に傍点]は、赧くなって、気ぜわしなく毛糸襟巻の房を指に巻つけながら、鼻にかかった声で云った。
「だっておばさん……あれじゃないの、私毛布置いて来るのは厭なんだもの。……この頃随分寒いでしょ、だから。――私困っちゃうわ」
婆さんの皺が、微笑で顔じゅうに漣のように拡がった。
「そうそう。寒いものね。無理はないともね」
「いやあ、おばさん」
いほ[#「いほ」に傍点]は、むきに、赧くなって肩を揺った。
「本当なのよ。本当に黄色と茶色の格子縞でね、二十円もするのよ。私むざむざ渡してなんかしまうものか!」
その次、婆さんに会った時、いほ[#「いほ」に傍点]は決心して極りわるさごと身投げするような顔つきで自分から云い出した。
「ね、おばさん、あの毛布――私とても惜しくて仕様がないから、も少し辛棒して待つことにしたわ、あのひとが使わなくなる迄」
年寄の眼は、狡い、優しい輝きで一杯になった。ほうほう、いほ[#「いほ」に傍点]の毛布をいとしがること!
彼女は、勿論いほ[#「いほ」に傍点]が何時まで「毛布のためばかりに」夫のところにいてやるつもりか、忘れても尋きはしなかった。
底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
1979(昭和54)年6月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「婦人公論」
1926(大正15)年2月号
※初出時は、「婦人公論」の「懸賞・執筆者探し」に無署名で掲載。
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年1月23日公開
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