ひどく長い間駈けることの出来る男であった。まったく、よく駈けられる。いほ[#「いほ」に傍点]は、従卒というものが、こう駈けつづけられる者だとはその時まで知らなかった。彼は、栗毛の、西洋名のついた馬に騎《の》って小刻みな※[#「足へん+(炮−火)」、第3水準1−92−34、502−11]《あがき》で出かける主人について、靴のまま、いほ[#「いほ」に傍点]が見当も知らない遠方の役所まですたすた駈けて行くのだ。而も毎日。――
 そして、素晴しい力持ちでもあった。彼が、小さないほ[#「いほ」に傍点]を両腕でぎゅうっと自分の胸に擁《だ》きしめると、いほ[#「いほ」に傍点]は潰れそうにクウと喉を鳴らしながら、ちぢれた頭を打ち振って嬉々《きき》と笑った。
 ここに一つ、いほ[#「いほ」に傍点]の困ることがあった。それはほかでもない。臭いことだ。従卒は、こんなにも馬とぴったり隣合わせに暮して、馬臭くならなければならないのだろうか? 板の羽目一重の彼方が厩、此方が夫婦の部屋。いほ[#「いほ」に傍点]はよい眠りてであったから、夜中に二匹の馬が魘《うな》されるのや無礼に水を迸《ほとばし》らせる音は聴かなかった。然し臭い。部屋がくさいばかりではない。夫の皮膚《かわ》まで、まるでまるで馬そっくりに臭いのであった。
 いほ[#「いほ」に傍点]は、夫の馬臭さから、もっと大事な物が、ひどく心配になり出した。あの大切な長襦袢や伊達巻も、若しや夫のように臭くなっていはしないだろうか。彼女は、行李を引ずり出した。蓋をあけ、一つ一つ鼻に押し当てて嗅いで見た。――悲しいことに、いほ[#「いほ」に傍点]の気のつきようがおそかった。もう手後れであった。可愛い花友禅の襦袢も、つるつる光る紫繻子の伊達巻も、色こそもとのままだが、馬臭い、臭い! ほかの何の匂いもしはしない! いほ[#「いほ」に傍点]は、泣顔で厩にかけつけた。馬は平気で、長い面《かお》を動かした。
 ちぢれた頭を垂れていほ[#「いほ」に傍点]は長いこと思案した。彼女は、遂に大きな風呂敷包みを一つ拵え、悄《しお》れて丘の下の煙草屋へ行った。
「おばさん、どうかこれ暫く預って下さいな、私……私――。誰にも云わないでね、誰にもね」
 いほ[#「いほ」に傍点]は、行李の外見は細引で縛ったようにしたまま、中から大抵の着物を煙草屋に運んでしまった。いほ[#「いほ」
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