ろう。然し、自分達の墓のある土地で彼等が生きつづける――どうしてそんなことが夢見られよう! ダーリヤ・パヴロヴナ自身にさえ、彼女の一生は地球儀のどの色で塗られている場所で終るのか、予想もつかないではないか。地球の面の広さ、そこに撒かれた自分達の生活の何とも云えず拠《よ》りどころなき立場――。ダーリヤ・パブロヴナは、今日のような曇った空の下によせている一つの海を想い出した。
彼女は敦賀行汽船の最低甲板から海を眺めていた。海はあの埃をかぶったスレート屋根の色をしていた。タブ……タブ……物懶《ものう》く海水が船腹にぶつかり、波間に蕪《かぶ》、木片、油がギラギラ浮いていた。彼方に、修繕で船体を朱色に塗りたくられた船が皮膚患者のように見えた。鴎がその檣《ほばしら》のまわりを飛んだ。起重機の響……。
ダーリヤの、どこまでも続く思い出を突然断ち切るように、階下で風に煽られたように入口が開いた。
「あら、これ、家の娘さんですの、悧口そうな眼つきだこと……何ていう名なのお前さん」
「我々の言葉を理解しないんですよ、ちっとも」
レオニード・グレゴリウィッチのそれは声だ。ダーリヤは、いそいで階子口の襖をあけて下を覗いた。ブーキン夫人が真先に靴をぬいで階段に足をかけ、彼女に向って身振沢山に手を振った。
「おお、おお、あなたは本当に仕合せものよ、可愛いダーシェンカ! こんな天気に外を歩いて来て御覧なさい」
次いで、マリーナ・イワーノヴナ、最後にジェルテルスキーの長い脚が、左右、左右、階段の上に隠れるのを見届けると、下の小さい娘は自分達の部屋へかけ込み、息を殺して、
「お婆ちゃん、三人、異人さん」
と報告した。
三
長火鉢をはさんで姪《めい》の志津と話し込み、せきは孫の報告をききつけなかった。
「だからさ、そりゃ私みのるさんの覚悟が悪いって云ったのさ。義理にもせよ阿母さんだと思えばこそ、善ちゃんが自分の稼ぎで寒いめもさせないんだからね。孫の看病位お前……」
「おばあちゃん!」
うめは、祖母の黒繻子の衿《えり》にハンケチをかけた肩にもたれかかって押した。
「三人ですってば、異人さん」
「分りましたとさ」
長火鉢の向う側から、志津が云った。
「いい門番さんがいるのねえ、おばあさんとこ」
せきは、長火鉢の縁で煙管《きせる》をはたき、大人の女でもみるような風に六つの孫娘をじろりと見た。
「おかしな子ったらないのさ、異人さん異人さんって大騒ぎさ。もうちっと大きかったらとんだ苦労だ」
「ふふふ、まさか!――珍しいんだわねえ、うめ坊」
うめは、祖母の横に坐り、上眼づかいで伯母を見上げながら、にっとはにかみ笑いをした。おかっぱで、元禄の被布を着て、うめは器量の悪い娘ではなかったが、誰からも本当に可愛がられることのない娘であった。蒼白い顔色や、変にませた言葉づかいが、育たないうちにしなびた大人のような印象を与えた。年寄りの祖母に、遊び仲間もなく育てられているうちに、うめは、六つで、もう年寄りになりかけているのであった。志津は、甘えて横座りしているうめを愛情と焦立たしさの混った眼で眺めながら、
「うめちゃん、何て名? お二階の異人さん」
と訊いた。
「ジェリさん」
「――本当? お菓子みたいな名なんだねえ」
「違うんだよ、ジェル何とか云うんだそうだけえど、あんな長い名覚えられるもんじゃあない、名なんぞ呼ぶ用がありゃしないよ」
「――二階に人がいると、でも淋しくなくっていいわ。そろそろ下駄片づけちゃどう」
せきは、薄い苦笑いを洩らした。いつか志津が遊びに来た時、
「まあ、どうしたのあの上り口の下駄ったら、何人家内です、こちらさん」
と云ったことがあった。するとうめが、とても声をひそめて伯母に説明してきかせた。
「あの下駄はね、本当は誰にも云っちゃいけないんですけれどね、わざと置いとくの。うち、おばあちゃんとうめだけで不用心だから」
志津は、田丸屋のかき餅をつまみながら、
「いくらで貸してるの」
と尋ねた。
「二十四円さ」
「おばあさん一人のお小遣いだもん結構だわ」
暫く黙っていたが、せきは軈《やが》て、
「作も仕様のない人間さ」
と呟いた。仕事の為とは云いながら、小さい孫を押しつけて旅先に暮らすことの多い作造に不満を抱いているのだろうと志津は思った。全く、婆さんだけの家というのは、何故変に湿っぽいようで、線香のような煎薬《せんやく》のような一種の臭いが浸みついているのだろう。志津は、或る人の世話になって、退屈勝な毎日を送っていた。他に身寄りもないので、彼女は喋りに来るのであったが、天気のどんなによい日でも、この長火鉢の前にいると戸外に日が照っていることを忘れてしまうようであった。
「作さんも、おかみさん貰えばいいのに――」
「ふん―
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