。利かないもんかな、などと云う言葉を理解した。小心なジェルテルスキーはその場合、一番彼に近くいる位置の関係から云っても、何とか一言親しみある言葉を与えたかった。然し、彼には適当な日本語が見つからない。――つまり彼も黙って、タイプライターを打ち始めた。
「最近地方図書館は著しき発達を遂げた。現在に於て地方図書館の数は六千五百を数えられている」
 外の往来をトラックが通るひどい音がし、ブルルル新聞社の建物全体が震動した。一人が思い出したように立って、室の隅の水道栓のところで含漱《うがい》を始めた。社長は次の室へ去った。――
 階子口のところへ、給仕娘の顔が出た。
「ジェルテルスキーさん、御面会ですよ」
「だれです?」
「御婦人の方がお二人で下に待っていらっしゃいます」
 ジェルテルスキーは長い椅子からたちながら、金髪をかき上げ、水のような碧《あお》い眼を訝《いぶか》しげに動かした。柱時計は二時十五分を示している。ジェルテルスキーは、靴をはいた足の長さの三分の一は確にあまる浅い階子《はしご》段を注意深く下りて行った。
「来ます?」
「ええ直ぐいらっしゃいます」
 腰をかがめてその声の方を覗き、ジェルテルスキーは意外さと漠然とした当惑とで、
「おお」
 蒼白い顔を少し赧《あか》らめた。再び金髪をかき上げる暇もなく、彼はブーキン夫人の有名な饒舌に捕まった。
「ああ、レオニード・グレゴリウィッチ! お目にかかれて何て仕合せだったんでしょう。さ、どうか早く下りて来て私共の相談相手になって下さい」
 交際で、ジェルテルスキーはもうブーキン夫人を取扱うこつを心得ていた。彼は、内気そうな、同時に頑固そうなところもある微笑を浮べながら、先ず黙って、さし出された対手の手を握った。
「いかがです」
 次に彼は、傍《かたわら》に立っている、太ったマリーナ・イワーノヴナに挨拶した。いつも傲然と胸をつき出し、ジェルテルスキーを子供扱いにしているマリーナ・イワーノヴナが、今日はどうしたことか、彼の挨拶に、うなずいて答えるのだけがやっとらしい有様であった。それを、ブーキン夫人が尤《もっと》もだ、尤もだというように、吐息をついて眺めた。
「ねえ、レオニード・グレゴリウィッチ、マリーナ・イワーノヴナが何ともお気の毒なことになりましてね、私、御相談を受けて友達甲斐にお見捨てすること出来なくなったんですよ、マ
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