務的のもので、総ての問題を超えた奥に一貫して自分を支配する力である。自分を生かせて呉れるものであると同時に自分を殺すものでもあるその力に働かされて、自分は止まれぬ渇望から、ささやかな努力と祈願とを、芸術の無辺際な創造的威力に捧げているのである。
この間中、田舎に行っていたうち何かで、或る作家が、女性の作品はどうしても拵えもので、千代紙のようでなければ、直に或る既成の哲学的概念に順応して行こうとする傾向がある、と云うような意味の話をされた事を読んだ。
これは新しい評言ではない。
女性の作家に対して、屡々《しばしば》繰返された批評である。
認識の範囲の狭さ、個性の独自性の乏しさ、妥協的で easy−going であると云うような忠言は、批評の一種の共有性であろう。
或る人は、そんな事はあるものか、男の人は負け惜みが強いからそんな事を云い度いのだと、云うかもしれない。けれども、この間、右のような言葉を見た時、自分はひとごとでない心持がした。
考えずにはいられない心持に成った。種々な偏見や、反抗を捨てて、凝っと自分の仕事を見詰めると、少くとも自分は、正直に、成っていない事を直覚せずにはいられない。その未熟な事は、勿論芸術的経験の乏しい事にも依る。然し、創作も、筆先の器用さでのみ決するのを正としない自分は、どうかしても、自分と云うその者の本体の裡に戻って考えずにはいられなく成るのである。
男性の中にも、下等な心情の人はある。従って、下等な心情の作家もあり得る。そこ許りを見て、私共にはあんな事を云いながら、とは云うべきでないだろう。
人類の文化の進展は、未来に私共の心も躍るような光明を予想させる。従って、自分は自分等人類の未来と共に、この僅かな一節である自分並に、他の多くの女性、女性の芸術家たらんと努力する人々の未来に就てここでは一言も触れようと思わない。
只、現在は、確に或る点まで肯定しなければならない女性の芸術家の貧弱さは、どう云う原因を内に蔵しているのだろうと云う事を、考えて見ずにはいられないのである。
女性の作家が妥協的で easy−going だと云う批評は加えられた。然しそれなら何故、そう云う傾向を持っているのだろう?
反省なしに、私共は総ての発達を予期する事は出来ない。
三
先ず、女性の作家に加えられた評言に就て反省
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