せていた。
かくあるべきもの、かくあり度いものとして彼方に予想する女性の生活は、遙に今日実際在るその物よりも自分の心を牽《ひき》つけた。自分の裡に在る一部の傾向で理想化した女性の概念を直《すぐ》今日の事実に持って来て、それと符合しない処ばかりを強調して感じ失望したり、落胆したりしていたのである。
一口に云えば、自分は「人」から思想を抽象するのではなく、逆に、思想を人に割当て、或る概念の偶像を拵らえようとしていたのだとも云えるだろう。
女性に就て云っても、或る時には、感情的、理智的又は智的、無智等と云う大まかな、蕪雑な批評で安んじるような傾向が決して無いとは云われなかったのである。
けれども、人は決してそんな単純な形容詞で一貫するような性格を持っているものでは無いのだ。
複雑に複雑を極めた箇性の内面の力が、圏境や過去の経験に打たれ、押し返し、揉み合って一歩ずつ、一歩ずつ今日まで歩み進んで来たのが、今日のその人でありその人の生活であるのだ。箇人の内的運命と外的運命とが、どんなに微妙に、且つ力強く働き合って人の生涯を右左するかと思うと、自分は新しい熱心と謙譲とで、新に自分の前に展開された、多くの仲間、道伴れの生活の奥の奥まで反省し合って見度く思う。自分が人及び女性として、漸々《ようよう》僅かながら立体的の円みをつけ始めると、同性の生活に対して、概念でない心そのもので対せずにはいられなく成って来た。所謂婦人問題の、題目を研究し理解しようとするのでは無い。種々の問題を起す、最も根本的原因である女性の心そのものを、心そのもので観、考え、批判して行き度く思うのである。
二
或る人の芸術は、その人の人格並に生活と密接な、切っても切れない関係を持っている。その点から見て、女性の手に成った文学的作品が、若し男性の手に成ったそれに比して常に第二流の芸術的価値ほか持ち得ないものとしたら、それはつまり女性が、人及び芸術家として、充分の創造をなし能う丈の人格も、生活をも持っていないと云う、一部の証言に成るのではないだろうか。而も、自分にとって、創作は冗談や余技の憂さ晴しではない、たといどんなに小さくても、自分から産み出された芸術の裡に、又は、創造しようとする努力の裡に、自分の生命の意味を認めずにはいられない力を、内から感じているのである。
これはもう第一義
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