宏子に気づかなかった。本束の下にメリンス風呂敷の裁縫包を抱えている宏子は、立ち止りながら子供らしい調子で、
「何いそいでいるの、家へ来たの?」
と云った。地べたを見て歩いて来た富岡の顔色は宏子が見ても病気のように蒼くて、眼が血走った様子をしている。富岡は宏子もおちおち目に入れていられない風で、曖昧な意味のはっきりしない言葉をつぶやくと、はっきり宏子をよけるようにしてまた急ぎ足で行ってしまった。何事かがあった。そう感じられた。
 家へ入ってみると、客間のドアがあけっぱなしになっていた。そして、瑛子がソファの前にこちら向きに立っている。両手を後に組んで、白い顔をしゃんとこっちへ向けて、怒った気の亢《たか》ぶりが現れたままの瞬きをして、入って行く宏子を見た。宏子は、
「どうしたの」
と云った。
「富岡って男は――実に下らない!」
 瑛子は、一人前の大人に向って云うように率直な大胆な言葉で娘に云った。
「今帰ったばかりなんだが――お金がどうしても二百円とかいるんだとさ。奥さん、何とかして下されば一生何でもあなたの云うとおりになりますって、跪いて、ひとの手にキッスをしたりして、馬鹿馬鹿しい!」

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