却って宏子の苦しさや動揺は切実なのであった。
宏子はなお暫くそのままにいたが、やがて立ち上って寝台のところへゆき、壁際の方の掛物と敷蒲団とをめくって、下から一冊の小型な大して厚くない、ハトロン紙の覆いのかかった社会科学思想の発展の歴史を書いた本をとり出した。
やっと読書に身がいりだした時、コンクリートの廊下にスー、スーと草履をひきずって来る跫音がきこえた。宏子は手をのばして、机の上のスタンドを消した。鍵をかけることの出来ないドアがノックなしにすこし外から開けられる気配がした。
「あら加賀山さん、おきていらしたんじゃなかったんですの」
という、寄宿舎の看護婦の沖のひきのばしたような声がした。
「寝ちゃったわ。――御用?」
「三輪さん外泊でしょう。お淋しかないかと思って……」
宏子はむっと黙って、物音を立てずに沖の去るのを待っていた。お淋しかないかと思って! 寄宿では一応学生の感情をはばかって、舎監が自分から学生の部屋を歩き廻るようなことはしなかった。その実際上の代りを看護婦の沖がつとめた。彼女は中途半端な自分の立場をいいことにして、誰の部屋へでも時をかまわず、口実にならない口実で入
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