早口にそう云いながら、瑛子は後にまわしている自分の手を一層うしろへ引っぱるように肩を動かした。
「何て男だろう、金を出してくれれば一生奴隷になるなんて。あなたが僕に特別な好意をよせていて下さることはよく知っている、だってさ! 私は、きっぱりそう云ってやった。あなたの云うことをきいたら、よしんばあるお金でも出したくなくなりました、って。――人を馬鹿にしている!」
 宏子には漠然とではあるが、富岡が母へは娘という態度でいたのが判った。さっき往来で逢ったときの血走ったようになっていた富岡の眼付や宏子から一歩どいて歩き出した時の身ごなしなどが、何とも云えず厭わしい気持で思い出された。宏子は、堂々と怒っている恰幅のよい母の前に立って、瞬きもしないで富岡に対する罵倒をきき終ると、唇をひきしめた顔付でおかっぱを振りさばき、客間を出て自分の部屋に入った。
 それから後は、土曜の晩も、再び冷静な平凡な夜々に戻った。
 秋になってからの或る夕方のことであった。その頃から一層沢山本を読むようになった宏子が、おそくまで図書館にいて、街燈が点きはじめた時分、帰って来た。池の端に向って坂になった歩き難い通りの端を、いそぎもしない歩調で歩いていると、うしろから静かに来た一台の自動車が少し宏子を追い抜いたところで、スーと左側へよって止った。車は宏子の鼻の先に止ったと同じだったので、思わず首をあげると、車の後窓から宏子の方を見ているのは泰造であった。泰造は、自分を認めた宏子に向って人指しゆびをちょっと挙げる合図をすると一緒に、短いいつもする口笛を鳴らした。すぐ無帽のまま腰をかがめて車を出ながら、運転手に、ぶらぶら歩いて帰るから行ってよろしい、と云った。
「どうしましたね?」
「今日はお父様珍しいのね」
「ああ」
 泰造は宏子の片方の腕をとって自身は道の外側を暫くだまって歩いていたが、やがて、
「丁度いいところで逢ったから話すがね」
 おだやかな、圧しつけるところのない、寧ろ心配りで愁わしげな調子さえ響く声で云った。
「実は昨日、或る人をよこして富岡がお前へ結婚を申込んだ。富岡は、お前にもその心持がある事実をもっていると云っているそうだが――」
 セイラア服の宏子は、黙りこくって頑固に自分の前を見つめて歩いた。泰造は、軽い咳のようなものをして続けた。
「儂《わし》は断ったよ。――あれはよくない。儂は来た男に、はっきり断った。いいだろう?」
 宏子は髪の根に汗のにじみ出すような心地で、
「ええ」
と云った。
「おっかさんには黙っていよう、また亢奮するといけないからね」
 泰造は片手で執っている宏子の腕のところを、もう一つの自分の手のひらで軽くたたいた。
「心配しないでいいよ。お前はいい娘だ。儂はお前を信じているよ。お前にはまだよく分るまいが、人間は自分のねうちというものを知らなけりゃいけない。そしてそれを大切にすることを知っていなけりゃいけない。いいかい?」
 それからは黙ったまま父娘が夕靄のかかりはじめた街路を家の方へ向ってゆっくり歩いた。もう家の門が見えるところまで来たとき、泰造が、もし煙草をふかしてでもいたなら、その吸殼をつよく地べたへたたきつける時の調子で
「あいつは、わざわざ第三者を入れてそういう話を持って来た。――」
と云った。
 その時から六年経った。宏子は今これらのことを複雑な感情で思い出すのである。
 学校前のバスの停留所のところは、片側が武蔵野らしい雑木林で、櫟《くぬぎ》の樹にまじって立てられている柱から燭光の弱い街燈が、白く埃をかぶった道端の笹を照らしている。厚く敷かれたばかりで、まだ踏みかためられていない門内の砂利が、宏子の靴の下でくずれて一足毎にザック、ザックと大きい音を立てる。門衛が、眼鏡越しの上目で、瞬間の明るみの中を横切って行った宏子の姿を見さだめた。
 同室の三輪は、外泊であった。宏子は、帽子を寝台の上に放り出すようにぬいで、先ず靴をはきかえた。それから、寝間着に着かえて、洗面所ですっかり顔と手とを洗った。机の前の椅子をずらして腰かけた。教科書が青銅のピイタア・パンの本立てで挾まれた背をこちらへ向けて机の上に並んでいる。視線をそれ等の赤や茶色の背表紙にやすめながら、宏子は教科書への興味は一向に動かされず、順二郎は今頃、何をしているだろう、としきりにそれが考えられた。順二郎の、どんなに明るい燈に照らされても冴えないようだった今夜の少年ぽい顔。母の異様な美しい程の集注、母であって母でないような心の空《そら》なあの様子。――娘である宏子の感情は苦しまずにいられないものが漲っているのに、その擾乱の中には軽蔑をひき起すようなくずれたものは感じられないのであった。若い宏子たちと共通なような生一本なものが瑛子のとり乱した感情を貫いていたので、
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