る話の内容には入って行けないのであったが、客間の中に徐々にかもし出されて、夜が更けるにつれて益々濃くなって行く、暖いような、燿くような、何かがかくされてでもいるような雰囲気に、宏子は早熟に敏感に全身でひきこまれた。何でもない。だが、何だかちがう。十五の宏子の心をひッぱって、わくわくさせるものがある。父親と話している時の母とは違う空気、父と母と富岡とが三人で喋っているときにもない何かが、父のいない土曜日の晩の富岡と母との話しの間には漂った。宏子の感覚はそれに刺戟されるのであった。
そういう晩、その頃生きていた一番末の四つの弟が泣き出す。泣く声が客間まで聴えて来ると、宏子はいつも絶望的にがっかりした。瑛子は、
「おや、敬ちゃんが泣いているよ、宏子、ちょっと」
と云った。きまって、そうであった。宏子は客間を出て、二階の両親の寝室へ行って豆電燈がともっている薄暗い中で、目ざとい小さい弟をなだめて、眠るまで子守唄をうたっていてやらなければならない。宏子は、客間へとんでゆきたい自分の心をやっと押えながら、ああちゃーんと泣き立てる弟をおさえつけ、そんなに泣くと狼が来るわよと嚇《おど》した。狼《オカミ》いやーんと弟は泣く。弟が眠るまで、母の蒲団の上に横になってついている宏子の耳に、微かに客間から母と富岡の笑い声が響いて来る。その笑い声は楽しそうであった。いかにも活気が溢れていて、宏子はどきどきする心臓が口からとび出そうに切なかった。涙も出ない。やけつくように体じゅう苦しかった。
敬が泣かない晩はまた別な忘られない思いがあった。十一時すぎて、もうやがて泰造が程なく帰って来るという刻限、それは丁度いつも客間の空気がその魅力の絶頂をなす頃であったが、瑛子はよく、そのときを待っていたように、
「お茶でも一ついれましょう」
と云った。
「さめてしまっているわね。宏ちゃんちょっとあつくしておいで」
客間の裏の板の間に、お茶番のための瓦斯コンロがあった。宏子はそこの板の間に坐りこんで湯わかしを瓦斯にかけた。そこは電燈がつかなくて暗かった。闇の中で宏子の柔かい顎から頬っぺたへかけて瓦斯の焔の色がうつり、そのあまりで四辺が狭くぼーと照らし出されている。客間からの話声をききながら湯がやっとたぎり出して来てだんだん煮え立つ音がしずまって行き、将《まさ》にふきこぼれようとするところで瓦斯を消す迄の我知らず固唾をのんでいる間の心持。――
余りこんでいない省線電車に腰かけて、郊外の夜を疾走する車体の動揺につれ、吊皮が並んで規則正しく白い環をあっちへこっちへとゆすられているのを眺めていた宏子の若い真面目で清潔な顔の上に、心の深いところから湧いて、音になって外へはきこえない呻きのような反抗の表情が通りすぎた。
そこの座敷には綺麗な桜んぼを盛った硝子の鉢があった。庭に桜の大木があって、その青葉が陽に透けているのが窓から眺められた。母の使いを云いつけられた宏子が富岡の家へ来ていた。富岡はあぐらをかいた膝の中に宏子を抱いて、短いおかっぱの髪と頬っぺたとへ一どきに自分の髭を剃ってある顔を押しつけた。そして、耳のなかへ、
「宏ちゃん、僕が好き? 僕を愛している?」
と囁いた。宏子はこっくりと合点をした。「じゃ、その証拠をくれる?」宏子はこくりと合点した。
それからよほど経った或る日の午後、宏子が学校からの帰り、家へ曲る蕎麦《そば》屋の角を入ると、むこうから富岡が同じ道をこっちへ向ってやって来た。宏子には遠くからそれが分ったが、地べたを向いて変にいそぎ足で来る富岡は殆どぶつかりそうに近づく迄、宏子に気づかなかった。本束の下にメリンス風呂敷の裁縫包を抱えている宏子は、立ち止りながら子供らしい調子で、
「何いそいでいるの、家へ来たの?」
と云った。地べたを見て歩いて来た富岡の顔色は宏子が見ても病気のように蒼くて、眼が血走った様子をしている。富岡は宏子もおちおち目に入れていられない風で、曖昧な意味のはっきりしない言葉をつぶやくと、はっきり宏子をよけるようにしてまた急ぎ足で行ってしまった。何事かがあった。そう感じられた。
家へ入ってみると、客間のドアがあけっぱなしになっていた。そして、瑛子がソファの前にこちら向きに立っている。両手を後に組んで、白い顔をしゃんとこっちへ向けて、怒った気の亢《たか》ぶりが現れたままの瞬きをして、入って行く宏子を見た。宏子は、
「どうしたの」
と云った。
「富岡って男は――実に下らない!」
瑛子は、一人前の大人に向って云うように率直な大胆な言葉で娘に云った。
「今帰ったばかりなんだが――お金がどうしても二百円とかいるんだとさ。奥さん、何とかして下されば一生何でもあなたの云うとおりになりますって、跪いて、ひとの手にキッスをしたりして、馬鹿馬鹿しい!」
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