としている絵であった。
宏子はすこし照れた表情で黙っていた。芸術品としての意味から順二郎が云っているのかと思った。そうだとすれば、画材は素朴にあつかわれていることを宏子も認めざるを得なかったから。しかし順二郎の意味は別のところにあった。
「僕、こういう気持がわからない。何故残酷なことをこっちからもしなきゃならないのか、そこがわからない。だって理論は人間の社会に正しいことをもって来ようとしているのに、何故そのために旧い悪いことをまたやらなけりゃならないんだろう。僕実に疑問だ」
弟の意味がはっきりして来るにつれ、宏子は、困ったような愕いたような目をだんだんに見開いて、
「だって順ちゃん」
と呻いた。
「だってさ、順ちゃん、右の頬っぺたをぶたれれば、左も、はいって出すと思える?」
「ちがう。僕だってきっとぶち返すんだと思う。だけど、僕には僕がそうしていいのかどうかが分らない。殴るってことがわるいならどっちが先だって後だって、わるいにきまってるのに」
順二郎は苦痛をもって云った。
「人間の理窟って、考え出されたようなところがある。絶対じゃないんだもの」
「――変だわ、順ちゃんの考え方、変だわ。目的だの意味だのがちがえばちがうじゃないの」
宏子は、彼女の及ぶ限り現実的な例で、順二郎のそういう実際の生活関係から物事を抽象してしまって考える傾向からひっぱり出そうとした。順二郎は従順であるが、宏子は愕然とさせる執拗さをもっている。今また彼が僕として考えて云々というのをきくと、再びその危険が宏子にひしひしと感じられるのであった。
「ね、順ちゃん、あなた、誰かしっかりした友達ないの? 何でも話せる友達ってないの? そういう人がいると思うなあ」
宏子がそう云っているとき、女中が来て、順二郎を階下へよんだ。思ったより手間がかかって書斎へ戻って来た。
「何だったの?」
「母様が、姉ちゃんと何話してるって――」
「…………」
宏子はいやな顔をした。
「姉ちゃんと話したこと、みんな聞かせろって……」
「そいであなた何て云ったの?」
「僕たち、正しいこと話してるんだから、誰にかくす必要もないと思う」
宏子はやや暫く黙っていた。
「とにかく順ちゃんは一風あるわ」
順二郎がほんとの友達というものを持っていないように思える、その原因もこんなところと関係がありそうにも思える。
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